ゴルフの歴史に輝く名勝負は数多い。その中でもゴルフ評論家の菅野徳雄氏は1957年のカナダカップを“名勝負”としてあげた。中村寅吉(42。年齢は当時。以下同)と小野光一(38)がサム・スニード(45)、ジミー・デマレ(47)を下したこの試合について、菅野氏が解説する。
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日本にゴルフブームが訪れるきっかけになったのが、埼玉・霞ヶ関カンツリー倶楽部東コースで開催されたこのゲームです。現在の「ワールドカップゴルフ」の前身となった大会で、当時は「カナダカップ」という名称でした。この大会で日本代表の“寅さん”こと中村寅吉と小野光一が団体と個人で優勝すると、日本のゴルフ環境を一変させました。ゴルフ人口が急増し、ゴルフ場建設が相次いだのです。
戦時中、ゴルフは「敵性競技」「特権階級の遊戯」と見なされ、戦争に負けると主なゴルフ場は進駐軍に接収されました。終戦から12年、経済復興を目指す日本では娯楽を求めていた。そんな中で開催されたビッグイベントでした。前年、初参加した英国での第4回大会で日本チームが4位と健闘したことが、日本開催のきっかけになったといわれています。
日本初の国際大会には、世界30か国から60選手が出場。米国からはサム・スニード、ジミー・デマレの強豪コンビが来日し、南アフリカ代表には新鋭のゲーリー・プレーヤーがいました。
初日は米国がトップでしたが、2日目に米国と回った日本は、10番パー3で寅さんがバンカーショットを直接カップインさせるなどの活躍で首位に立ち、3日目も首位をキープしました。 最終日には米国の猛追に遭いましたが、2位の米国に9打差をつけて圧勝。個人でも寅さんが通算274の大会新記録でスニードに7打差をつけて優勝しました。
この大会は日本で初めてテレビ中継が行なわれ、ギャラリーは4日間で1万7350人という記録が残っています。車が普及していない時代に駐車場が足りなくなってしまったほどで、B29が離陸するときに使う鉄板を横田基地から借りてきて、イモ畑に敷き詰めて臨時駐車場にするほどの大フィーバーとなりました。
優勝した2人はオープンカーでパレードするなど、日本全体が祝福ムード一色となりました。これをきっかけにゴルフブームに火がつき、日本のゴルフは大衆化されたのです。
●菅野徳雄
かんの・のりお/1938年生まれ。立教大学卒業後、日刊スポーツ出版社、学習研究社を経て1972年からフリーに。日本ゴルフジャーナリスト協会会長も務めた。
※週刊ポスト2012年10月12日号