【書評】『加賀乙彦 自伝』加賀乙彦/発行・ホーム社/発売・集英社/2100円
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
小説とノンフィクションは、同じ言語を扱いながら、作品性の追求に重きをおくか、あくまで事実の集積にこだわるかで線引きされる。しかし世に問う名作は、このような区分けをかき消すことがある。私にとって、加賀乙彦の作品はそのひとつである。
精神科医として、東京拘置所の死刑囚たちを面談した記録は「単に細部を描写するだけでなく、人間という存在そのものの秘密を明らかにしなければならない」との問題意識から、当の死刑囚たちの内面の奥底に潜む闇に光をあてた。そして、犯罪学の研究で留学したフランスでの内勤医の体験が、作家の道を歩ませることになる。
「小説の流れと並行している自分の実際の生活が、いかなるものであったのかを、この際明らかにしておきたい」と、医師・小木貞孝としての生活をも語った初の自伝は、新進気鋭の精神科医の、文学との出会いを、あますところなく伝えている。
フランスにむかう船上で辻邦生と出会い、帰国後、太宰治賞への応募が、吉村昭の次点であったこと。さらに、その応募作を手直しした『フランドルの冬』を称賛したのが、氏のもっとも尊敬する大岡昇平だったという連なりは、人生の妙を感じさせるエピソードだ。
医師として語る、精神治療の歴史も興味深い。十九世紀初頭まで、フランスでは精神錯乱者を、魔女や犯罪人として火炙りにしていた。一方ドイツでは、患者を水中に投げ込むなどショック療法が多用されていた。
やがて両国の間で「精神医学」の研鑽を競い合うようになり、第二次大戦を境に、ユダヤ人研究者たちが亡命をしたことで、アメリカが精神医学の主流となった。しかし、いまだ人間の心の闇に巣食う統合失調症の原因は解明されていないという。
なお、五六歳から手掛けた自伝的長編小説『雲の都』『永遠の都』は、昨年完結した。今年四月に八四歳を迎える作家は、二〇世紀の歴史に人生を重ね、文学に、リアリズムを注ぎ続けている。
※週刊ポスト2013年5月17日号