母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、ジャーナリストの大谷昭宏氏(68)が母・愛子さんとの思い出を振り返る。
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男の子にとって、いくつになっても母親というのは偉大なもの。特にウチの母は厳しいというより、しっかり者だった。
我が家は姉2人と弟の4人兄弟で、父は銀座のテーラーの洋裁職人。ただ母は、子供たちには父のように手に職をつけるということではなく、しっかりとした教育を身につけさせたかったようだ。
特に男に対してはそう考えていたのか、それほど豊かでない家庭だったのに、私は小学校の頃から家庭教師をつけてもらっていた。教育ママということではない。私が子供の頃から新聞記者になりたいという夢を持っていたことを知っており、好きな道を進むためには「教育」が必要という考えだった。
母はずっと変わらなかった。私が40歳のおっさんになっても、「よく噛んで食べなさい」といってきたことがある。さすがに怒ったが、母にとってはいつまでたっても倅は倅なんだろう。
母は93歳まで長生きしてくれたが、最後は少し認知症が出たこともあって入院し、病院で亡くなった。亡くなる前に見舞いに行くと、滅多に顔を出さない親不孝息子なのに、何人もの看護師さんから「10チャンネルの人が来た」といわれた。
事情を聞くと、母がしきりに「テレビは10チャンネルを見てやってね」とお願いして回っていたらしい。10チャンネルとは、当時私が出演することが多かったテレビ朝日のことだ。何歳になっても親は息子のことが気になるのかと、この時ばかりは親不孝を恥じた。
テレビといえば、私をテレビで見た後に、母が「今日は声がかすれていたが体は大丈夫か」といってきたことがある。母も心得たもので、直接だと私が鬱陶しがると思い、姉を通じて伝えてきた。私も姉を通して「大丈夫」と返答した。
男性にはわかってもらえると思うが、母と息子というのは、互いに心配していても、娘のように直接いえない独特の距離感がある。こういったことは亡くなってから実感するが、何歳になっても母親はありがたいと感じたものだった。
■大谷昭宏(おおたに・あきひろ):東京都生まれ。1968年、読売新聞社に入社。その後独立し、各種メディアで活躍。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号