チームが強くなるためには、有力な新人の補強が必要だ。しかしドラフトは「失敗の歴史」でもある。1位指名という入団時の期待にたがわぬ華々しい光を放つ選手がいる一方で、これまで多くのドラ1が、その期待に応えられないまま消えていった。
その歴史を総括すべく、1965年の第1回から今年までのドラフト1位選手の成功、失敗を分析した。その基準について、『プロ野球なんでもランキング』(イースト・プレス刊)の著者で、ジャーナリストの広尾晃氏が解説する。
「通算成績で、野手は1000試合出場、投手は50勝、または100セーブを挙げた選手を成功、それ以外を失敗にしました。基準は少し厳しめかもしれませんが、ドラ1はチームの柱となるべき選手なので、ハードルを上げました」
入団拒否選手と今後達成の可能性がある現役選手を除いて分析したところ、全球団で見ると、ドラ1選手の“勝敗”は195勝286敗。成功率は4割ほどとなっている。ドラ1で指名される野球エリートでも、プロでは簡単にはうまくいかないことを、ハッキリと示している。
そうした中で、ドラ1で成功できなかった一人が、1974年に中日に入団した土屋正勝(銚子商業出身)だ。甲子園を沸かせた投手である。
土屋投手は、2年生だった1973年夏、2回戦で江川卓を擁する作新学院を破り、翌年には5試合すべてに先発して2完封、総失点1という好投で全国制覇を果たした。しかしプロでは、11年間で通算8勝22敗4セーブと振るわなかった。土屋氏がいう。
「プロ入り前から肘や肩を故障していたので、プロではケガとの戦いでした。甲子園で投げ過ぎたこと、2年生エースとして江川さんに投げ勝ったことで、2年秋から3年夏にかけて全国から練習試合への招待が殺到したことが祟りました。相手に失礼に当たるからと、どんなに肘や肩が痛くてもエースの私が投げました。その結果、3年時は、夏の県予選が始まった頃でもキャッチボールができなかったほどでした」
そんな状態でも全国制覇を成し遂げたのだから圧巻だが、高校野球での酷使ゆえに将来を潰されたケースは珍しくない。
※週刊ポスト2013年11月22日号