【書評】『インドネシア9・30 クーデターの謎を解く』千野境子/草思社/2205円
【評者】関川夏央(作家)
インドネシア「9・30クーデター」はスカルノ「終身大統領」末期の一九六五年に起きた。正確には十月一日未明である。だが約二十八時間で失敗、逃亡した軍とPKI(インドネシア共産党)の首謀者は逮捕または射殺された。その後、PKIや華僑を中心に、五十万人とも百万人ともいわれる人々が殺された。このクーデターをきっかけに、容共インドネシアは反共へ大転換、三十年以上におよぶスハルトの「開発独裁」が始まる。
わずか二週間前に計画された粗雑なクーデターで、拉致・監禁する予定の七人の将軍を、ほとんど現場で殺害してしまった。うち一人は、大将と人違いした副官の中尉だった。反乱側は、国民に圧倒的人気のある「建国の父」スカルノを掌握できず、スカルノ自身も迷走を見せた。
党員三百万人と中国以外ではアジア最大、さらに党勢拡大中のPKIが、なぜこんな拙速なクーデターに走ったか。そんな著者の疑問は、九六年、産経新聞シンガポール支局長として赴任したとき大きくふくらんだ。
六五年はアジア激動の「危険な年」(スカルノ)だった。アメリカは北ベトナム爆撃を開始、第二次印パ戦争が起こったこの年、毛沢東は劇評「“海瑞免官”を評す」を姚文元に書かせて、文革への第一歩を踏み出した。一方スカルノは、「北京・ジャカルタ・プノンペン・ハノイ・平壌」枢軸を宣言していた。
やはり黒幕は毛沢東だろう。事件直前に訪中したPKI議長アイディットにクーデター実行を指示したのは、「敵」アメリカの注意と兵力を分散させるためで、PKIが「9・30運動」を自称したのは、中国「国慶節」を連想させたくなかったからだろう。当時から、アジアの動乱・混乱の策源地は中国であった。
千野境子は綿密な取材を重ねた末に、いまだ歴史に位置づけられぬ「アジアを変えた夜」に、たしかなひとつの回答を与えた。
※週刊ポスト2013年12月20・27日号