中世末期の戦国時代は諸大名がみな天下統一の野心を抱いて国内で争っていたイメージがあるが、中国地方や九州に割拠した“西国大名”たちは、よりグローバルな視点に立ち積極的にアジアへと乗り出していた。名古屋学院大学国際文化学部教授で歴史学者の鹿毛敏夫氏が指摘する。
* * *
豊後国(現在の大分県)を統治した大友氏のグローバル志向はすでに室町時代中期、15世紀中頃の第15代当主・親繁の頃から始まっていた。親繁は領内で豊富にとれ、需要の高い硫黄を遣明船で大量に明に輸出し、莫大な利益を得た。
やがて、15世紀後半から明政府の課す渡航制限が強まり、大友氏は遣明船貿易の中枢から外される状況が16世紀初頭まで続いた。その状況に大友氏は打開策を講じる。その手法とは、有効な勘合(*1)を保有しないまま、明に私的な遣明船を送り込み、正規の使者でないことで明側から入貢を拒絶されれば、警備の薄い福建沿岸に回り込んで密貿易を試みるものだった。
【*1 明と朝貢国間の正式な通交証明】
明側からすればこの密貿易は倭寇(*2)行為に他ならない。この時期の大友氏の遣明船は、私的(偽使)遣明船と倭寇密貿易船両方の性質を合わせ持つ実利重視の対明交易船だった。
【*2 朝鮮および中国大陸沿岸に出没した海賊集団の朝鮮・中国側からの呼称】
足利義満が15世紀初頭に始めた日明貿易は、明朝を宗主国とした主従関係が色濃い。しかし西国の大名たちの視点はその地位に甘んじることなく先を見据えていた。