国内では追悼番組が相次いで放送され、その訃報は米国、フランス、中国と世界中で伝えられた。多くの人々が漫画界の“妖怪”の死を悼んでいる。不世出の漫画家・水木しげる氏(享年93)は、描くキャラクターだけでなく、自身もまたユニークだった。
「最後にお会いしたのは今年6月。いつもと変わらず、私の薄くなった頭を見て“あなた、もうすぐ定年ですよね?”とからかってくださって。まだまだお元気そうで安心していたのですが……」
今年5月まで『ビッグコミック』で連載された『わたしの日々』(小学館刊)の担当編集者・西村直純氏は、水木しげる氏との“最後の時間”を寂しそうに振り返る。
11月11日、水木氏は東京都調布市の自宅で転倒して頭を打ち入院した。一時は回復したが、11月30日未明に容体が急変し、天国へと旅立った。
〈家族に囲まれて穏やかに逝きました〉と遺族がコメントを発表したように、最期は安らかに息を引き取ったという。
西村氏は、水木氏との思い出についてこう語る。
「水木先生と初めてお会いしたのは22年前、『妖怪博士の朝食』を担当したときで、私が26歳、先生が71歳でした。大御所だけに最初は緊張したんですが、わりとすぐに親しみを感じるようになりました。その頃は私もフサフサだったので髪をイジられはしませんでした(笑い)」
戦後復員した水木氏は、紙芝居画家を経て、貸本漫画家としてデビュー。1965年に『テレビくん』がヒットすると『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』など多くの代表作を生み出した。特に『ゲゲゲの鬼太郎』はテレビアニメシリーズが5回も放送される国民的作品となった。
日本を代表する漫画家となった水木氏だが、それを鼻に掛けることのない気さくな人柄だったという。
「漫画業界のゴシップが大好きでしたね。“○○先生は、どこそこを怪我したらしいですね?”とか“△△先生は病気なんだって。そろそろ危ないんじゃないの?”とか耳にされた噂を確かめようとカマをかけてくるんです」(西村氏)
『ねぼけ人生』、『水木しげるのラバウル戦記』で編集に携わった書評家の松田哲夫氏も水木氏の“ゴシップ好き”の一面を明かす。
「担当編集者の出世に異様なほど興味を持っていた。私が筑摩書房の取締役になったときも、“ほう、取締役ねぇ”と。で、翌年のお正月には〈経営は、モウカラン本は出してはいかんということと社員を働き虫にすることでアル〉と書かれた年賀状が届きました」
※週刊ポスト2015年12月18日号