(前編より続く)
楊本容さんは病床の父に手紙を届けただけでなく、その手紙と写真をコピーし、同じ高木先生の教え子たちの家を一軒ずつ探し回り始めたのだ。
「父の代わりに私が力になりたいと思ったんです。教え子の方々は、『高木先生は106歳で今も元気にしているのか!』と言って驚き、とても喜んでいました」
楊本容さんはそう顔を綻ばせる。
それから暫くたった4月上旬のある日、熊本に住む高木さんのもとへ、台湾からオレンジ色の分厚い封筒が届いた。そこには何人もの教え子たちの直筆の手紙と、現在の様子を撮影した写真が詰まっていた。手紙のコピーを受け取った教え子たちが、みんなで先生に返事を書いたのだ。
手紙に書かれていたのは、80年前に高木先生から習った、美しい日本語だった。
〈手紙見て心の中から感謝。恭喜申上ます。(中略)ひまがあれば、とうても(注・とても)先生にあいたい〉
〈「神様の御恵みを感謝致します」。何んとすばらしい事でせう!!(中略)学校で一番きれいな女の先生の高木先生は印象的で今でもおぼへて居ます〉
〈慈愛に満ちた優しい偉大な先生は私を副級長に選んでくれた事、顔にヒフ病の折メンソリターム薬を頂いた事、体格の大きい同級生にいじめられた事、受学課外に算術を教へてもらった事、まづしい家庭に生れた私に着物も頂いた事は電影の如く頭上に浮んで今でも先生に感謝しています〉
教え子のひとり、顔にメンソレータムを塗ってくれたことを書いていた楊爾宗さん(88)に会いに行くと、力強い日本語で言った。
「私のなかでは、高木先生は私の父親よりも親しく、母親よりも感謝しているぐらいなんです」
公学校2年生のとき、楊爾宗さんには忘れられない思い出がある。寒さが厳しくなった晩秋のある日、不意に高木先生に呼び止められた。見上げると、「楊くん、これやるよ」と言って、衣類を手渡された。学生服だった。国防色という今でいうカーキ色で、前は金属のボタンで留められていた。楊爾宗さんはその服を毎日着て、着られなくなってからもずっと保管し続けていた。
「高木先生は生徒を接近させようと、うちのような金のない家庭の子供には着物を買ってくれたし、顔に皮膚病があったときには、メンソレータムの薬を買ってくれた。そうして僕は先生を好きになり、勉強が好きになった」
楊爾宗さんは戦後、工場経営に成功し、立身出世の人となった。「今こうして社会に立つことができるのも、高木先生のおかげ」という彼は、いまでも毎日、日本語で日記を付けている。