「読書感想文」の是非について、ネットでも議論がある。コラムニストのオバタカズユキ氏が考える読書感想文のあり方とはなにか。
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読書の秋もたけなわなということで、ネット上でも「この秋にじっくり読みたいお薦めの本特集」的な記事が量産されている。これが10月27日~11月9日の読書週間に入ると、リアル書店、図書館、新聞紙上などなどでも、さまざまな読書フェアや読書推進企画が催され、本を読んでいる人は賢い人です、本を読まなきゃ人生損です的な空気がつくられる。
そういうあれこれについて、冷めた態度で書き始めている当コラムのように見えるが、今でも私の主な収入源は紙の本の仕事だ。総務省の家計調査によると、意外なことに、9月から10月は一年のうちでも書籍への支出が少ない時期だそうである。出版市場活性化のために、ありとあらゆる策は打ってほしいし、微力ながら私も援護射撃をしたい。
しかし、である。読書推進運動の一環で、学校が児童や生徒に読書感想文を書かせようとするのには、あまり賛成できない。感想文というのは、自分の心の中に生じた変化を言語化してまとめる、くらいの意味だと思うが、心が変化することを前提にする読書というのは本末転倒だと思うからである。
はっきり言って、心の中に変化が生じる、つまり感動する読書体験なんて、そうそう滅多にない。まず、多くの人の心を動かすだけの力を持った本は僅かだし、書評家や図書館司書や本読みさんたちが名作を選書して勧めても、勧められた側の心のコンディションがうまく合わなければ、感動はできないのである。
だから、読書して感動できた本やその体験はとても希少価値があるのだけど、読む前から感動を前提として本を読ませるのはナンセンスだ。意味がないので、子供たちの読書感想文のほとんどは、あらすじと感動したポイントを書いて「私も主人公のような人間になりたいです」みたいな、心にカケラもないことを添えて終わりみたいな、虚しいものになるのである。
いや、そんな程度のやっつけ感想文でさっさと片付けちゃえる子供は、まだ健全だ。なんだかなあと思うのは、感動ポイントでかなりな変化球を投げてきて、私は他の人とは目のつけどころが違うんです、と自己ピアール、締めも「さあ、私たちも飛び立つ時だ。好奇心に突き動かされ、前人未到の地に到達したこの主人公のように」とか、くさーいポエムを書き散らしてしまう国語優等生たちだ。その手の感想文が賞を取っちゃったりする世界の存在も気持ち悪い。
そういう書き方をすれば、文科省や選考委員のおじ様おば様たち喜ぶから、と分って書いている子供が賞を取る。それはひとつのマーケティングと戦略なので、将来の商売にも役立つかもしれない。まあ、勝手にやってくれ。問題なのは、そういう国語優等生も片づけちゃえ系の子供たちも、おかげで読書が嫌いになってないか、という懸念である。