物語から、あえて“日常性”を奪う「不条理演劇」。1950年代に欧米で勃興したこの前衛劇を、日本で展開した劇作家が別役実さん(79)である。だが、現実が不確実性を帯びる時代、不条理劇は意味をなさない、と同氏は言う。
別役さんが不条理劇の第一人者と呼ばれるのは、不条理劇の代表的な作家・サミュエル・ベケットの影響を受け、その世界観を日本において劇に入れ込んだ最初の人であったからだ。
だが、そうして不条理劇を書き続けてきた彼は、1980年代を過ぎた頃から演劇で「不条理」を描くことの意味が徐々に失われてきた、と語る。
「不条理劇というものはもともと、1950年代から1960年代にかけてのヨーロッパで、ガチガチの合理性を重視する近代を批評するための手がかりでした。ところが、いまは世界中でその確固たるものだったはずの近代の合理的な価値観が、綻びを見せているでしょう?」
──英国がEU離脱を決め、米国ではトランプ大統領が登場しました。
「あのときのEUや米国の様子を見ていると、合理的とは言えそうにない一時の大らかな判断によって、得体の知れない政治的正義感が社会に蔓延していった気がしました。
これは民主主義なのか、それとも衆愚政治なのか。そこに垣間見えたものが、まさに『近代』というものの綻びだと僕は思った。欧米の国々の根幹を支えてきた合理主義という哲学が、人間の不合理さによって揺さぶられ、危うくなっている、と」
──しかし、なぜ人間の不条理を描くことが、かつては「近代」を批評する手がかりだったのでしょうか。
「それによって合理主義の哲学を相対化できたからです。不条理の感覚というのは、例えば画家のダリが描くような絵を見た際の気持ちのことです。
彼の絵の中では、時計がグニャグニャになっていますね。その『グニャグニャ感』を演劇という形で表現する。するとガチガチの近代の論理が、グニャグニャに壊されていく。つまり不条理劇とは、自明に思える近代の論理を崩し、その社会の外側に出て、別の視点で『いま』を批評する機能であったわけです」
──1990年代に入るにつれて、そうした「批評」が有効ではなくなった、と。
「だって、演劇で表現せずとも、“不条理の感覚”を身につけた人間が社会に溢れるようになってしまいましたから。現実そのものが不条理を受け入れている現代では、不条理を演劇によって描かなくても、人々がすでにあのグニャグニャとした感覚を分かっているのです。要するに不条理劇が反逆の表現ではなくなった時代を、僕らは生きている」