朝鮮王朝時代には、美貌と知略で王を翻弄し、国をも揺るがした妖婦がいた。その中でも張禧嬪、張緑水、鄭蘭貞は“三大悪女”として名高い。
張禧嬪は中人の娘で、本来なら両班との厳しい身分格差の中で生きねばならなかった。しかし、彼女の類まれな美貌とコケティッシュな魅力が国王をも惑わせた『歴史と人物でわかる華麗なる朝鮮王朝』(角川ソフィア文庫)の著者・佐野良一氏は語る。
「張氏は中人(下級官吏)から王妃に登りつめた唯一の女性です。粛宗(在位1674~1720)は、ひと目で彼女を気に入り側室にとりたてました」
側室は最下位の「淑媛」から「禧嬪」まで8段階に分かれていた。張氏は淑媛になってすぐ世継ぎを産み、最高位の座に駆けあがり「張禧嬪」と呼ばれた。だが彼女はこの程度の出世と境遇に満足しなかった。
「禧嬪になってもしょせんは側室。でも王妃なら、女官が属する『内命婦』を意のままにできます」
張禧嬪はこの野望を達成してみせた。王妃・仁顕王后に子どもができないことを理由に離縁させ、代わって自分がその地位についたのだ。
「ところが王妃になって6年後、彼女の親族や彼女を支援する南人派の著しい台頭に危機感を募らせた王は、仁顕王后と復縁し、張氏を元の禧嬪へ格下げするのです」
復讐の鬼と化した張禧嬪は、王妃を呪い殺したうえ、寵愛をうける淑嬪・崔氏の妊娠を知り、リンチのうえ毒殺を企てた――だが、悪行はすべて白日のもとに晒され、張禧嬪は42歳で毒殺の刑・賜死に処された。 彼女の死後、「側室は王妃になれない」という法律ができているから、王もよっぽど悪女に懲りたのだろう。
張禧嬪の時代からさかのぼること180年、当時の王・燕山君は暴君として悪名高い。そして、彼の隣には常に張緑水という側室がいて王にも劣らぬ横暴を働いた。
張緑水は妓生から側室となった。彼女は卓越した芸術的才能に恵まれたうえ、超絶のセックステクニックを備えていたといわれている。おまけに、燕山君は無類の妓生好きときているのだから、過度の寵愛も、むべなるかな。
王と側室は派手な饗宴をことのほか好んだ。二人が催す連日の宴会で国庫がすっかりカラになったというのだから、その規模と内容は凄まじいものだった。
「庶民は重税に泣き、張緑水や親族が賤民から身分を引き上げられたうえ、重用されたことに怒ります。臣下も行き過ぎを見かね、とうとうクーデターを起こしました」
王は廃位され、ほどなく病死する。張緑水は斬首刑に処され、民衆は彼女の遺体に石を投げつけた――。
この事件の後、王となったのが中宗(1506~44)だ。彼の治世も、鄭蘭貞という美人の暗躍で乱れていく。鄭氏は中宗の第3継妃・文定王后の弟である尹元衡の側室となり、策謀を巡らせた。
中宗の死後、第2継妃の子・仁宗が即位するも、僅か9か月後、31歳のときに急逝。文定王后の子息の明宗が10歳で即位した。
幼王に代わり政治を執ったのが、鄭氏と文定王后の女性ツートップだ。これは朝鮮王朝初の「垂簾聴政」、つまりは「女人天下」だった。鄭氏は姦計にたけ、政敵や目障りな存在を次々に呪詛、放火、冤罪、毒殺などの手段で葬っていく。ちなみに仁宗を焼き殺そうとしたのも鄭氏だったし、病床にあった彼に毒入り餅を送ったのも鄭氏だといわれている。
しかし、天下の悪女も文定王后という後ろ盾の死をきっかけに失墜する。尹元衡の正室を毒殺した容疑で宮廷を追放された彼女は、服毒自殺を果たした。
※週刊ポスト2012年2月10日号