松田哲夫氏は1947年生まれ。編集者(元筑摩書房専務取締役)。書評家。浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。1996年からTBS系テレビ『王様のブランチ』・書籍コーナーのコメンテーターを12年半務めた松田氏が、同じ町内に住んでいた作家、吉村昭氏の思い出をつづる。
* * *
ある年の太宰治賞選考委員会が終わってすぐのころ、選考委員だった吉村昭さんから電話がかかってきて、「『ちくま』に載ってる短編小説いいね。こういう小説、好きだなあ」と楽しそうに感想を述べた。吉村さんが誉めたのは、永沢光雄さんの「すべて世は事もなし」。短編連載の一つで、ダメ男のどうということのない日常がユーモラスに描かれた好短編だった。
その年の選考委員会で、吉村さんは、最終候補作のレベルの低さに不満を述べていた。だからぼくも、吉村さんに満足してもらえる候補作を届けたいと考えていたところだった。そこで、吉村さんの評を永沢さんに伝えたとき、思い切って「太宰賞に応募しませんか」と提案してみた。「仕込む」つもりは、まったくなかった。彼が書いてくれれば、間違いなく受賞できるだろうと信じていた。
永沢さんは、すぐにその気になってくれ、「グッドモーニング・トーキョー」という長編小説を短期間で書き上げ、応募してくれた。永沢さんらしいユーモアが全編に漂い、頼りない男の姿が愛おしいまでに伝わってくる。味わい深い人情話にぼくは大満足だった。これだけの作品ならば、選考委員に根回しなどしなくても、間違いなく受賞できると確信がもてた。
ところが、選考委員会当日、吉村さんの思いがけない一言に、ぼくは凍りついてしまった。その時の様子を選考委員の一人である高井有一さんは、こう書いている。
「銓衡(せんこう)に当つて、吉村さんは厳しかつた。或る年の候補作に主人公が人の糞尿を食ふ場面があつた。その一行だけで、吉村さんはその作品を断乎として拒否した。ぼくは認めない、と言つたきり口を噤んでしまつた風貌が、今も眼に遺る」(高井有一「吉村昭さんの死」『夢か現か』筑摩書房より)
「この作品を受賞作に」と考えた選考委員もいたが、それを強く主張する雰囲気ではなかった。ぼくは、永沢さんに申し訳ないという重い気持ちを胸に、自らの非力をかみしめつつ司会の役目を果たすのが精一杯だった。
この時の選評で吉村さんは、永沢作品を「柔軟でいきいきとした文章であり、会話がいい。登場人物の像も鮮やかに読む者の眼に映ってくる」と高く評価している。それでも、「なぜ作者は、初めに排泄物を出したのだろうか」と、その一点が許せないのだと強く述べていた。(吉村昭「選考にあたって」『太宰治賞2001』筑摩書房より)
日頃、お話をうかがっていても、吉村さんは、決して声高に何かを主張する人ではない。しかし、この選考委員会のように、こと文学、こと小説に関わるときには、一切の妥協や容赦をしないのが吉村さんだった。その姿勢は気持ちのいいほど潔いものだった。
今でもぼくは、選考委員会に先立って吉村さんに原稿を読んでもらうべきだったのではないか、とクヨクヨ悩んでいる。しかし、そのたびに、あの日の吉村さんの表情と言葉が蘇ってくる。そして、そういう姑息な手段を取らなくてよかったのだと自分に言い聞かせるのだった。
それと同時に、落選で相当に落ち込んだ永沢さんも、決してSMクラブで「オジサンが女王様のウンコを食べてた」と書いたことを改めようとはしなかった。それはそれで、彼なりの文学に対する真摯な姿勢であったのだと思う。
※週刊ポスト2013年3月8日号