1565年に起きた“永禄の変”。将軍暗殺を企てた松永久秀と三好三人衆は、室町幕府第13代将軍・足利義輝のいる京都の御所を数千の兵で取り囲み、御所内に突入を開始した。逃げることが叶わぬ状況に追い詰められた義輝は死を覚悟し、謀反軍を迎え撃とうとしていた。
ここが死に場所と悟った義輝は蝋台を集めて酒宴を開き、最後をともにするであろう警護の家臣たちと別れの盃を交わす。そして鎧を身に着け、将軍家に代々伝わる幾多の銘刀から一振りを腰に、残りを自分を大きく囲むようにして畳に刺し、敵が来るのを待った。
いよいよ三好勢が義輝のいる広間の庭まで攻め入ってくると、「この刀は将軍家に伝わる銘刀。予の首を獲った者に授けよう」と相手を挑発する。武勲を上げようと義輝めがけて押し寄せる敵を一人、また一人と斬り倒し、刃こぼれや血脂で切れなくなると畳に刺した刀を抜いて持ち替え、さらに剣を振り続けた。その凄まじさに敵はたじろぎ、恐れおののいたという。
この時の義輝の戦いぶりについて、『武術武道家列伝』(島津書房)などの著書がある歴史作家の加来耕三氏が分析する。
「テレビのチャンバラと違い、戦国時代は鎧兜を身にまとっているので、甲冑の隙間である首や手首の部分を切らないと相手に傷を与えられない。そんな条件下で相手を60人近くも斬り倒したのですから、義輝の気迫と剣の凄さは尋常ではなかったはずです。あまりの強さに最後は銃で仕留めたとか、槍で足をすくって倒れたところを斬ったなど諸説あります」
下剋上の極みともいえる将軍暗殺事件だが、義輝は死して剣豪将軍の名を轟かせたのだった。
※週刊ポスト2013年3月22日号