天皇賞が行われたのは、その3週間後のことだった。毎日王冠に勝ち、いよいよスターホースとしての道を歩き始めたサイレンススズカにとって、天皇賞は物語のいわば序章となるべきレースでもあった。 第3コーナーを回るまで、すべては予定通りだった。
「息が入り始めて、いいぞ、いいぞ、と。本当にいい感じだった」
ところが──。第4コーナーに入る直前だった。サイレンススズカは、にわかに失速。2番手のサイレントハンターにあっという間に差を縮められると、あっけなくかわされる。武の誘導によってコーナーの外に出されたサイレンススズカは、左前足を宙に浮かせ、三本脚で立ち止まっていた。足を地面に着けないということは、故障が重度であることを物語っていた。武はその様子を見て、「物語」が始まる前に終わったことを悟った。
「レース中、何が起こったかはすぐにわかった。ジョッキーにとっては、いちばん嫌な瞬間ですね」
その瞬間、ジョッキーの体にどんな感触が伝わるものなのか。それを問うと、しばらく唸ったあと、こちらを拒絶するような、嫌悪するような苦笑いを浮かべた。
「あんまり細かくは言わなくてもいいんじゃないかな。普通の人は知らなくてもいいことでしょう」
武にとっては、もっとも酷な質問だったことに気付かされた。サイレンススズカは、左前脚の膝に見える部分、手根骨を粉砕骨折していた。直後、再起不能の診断が下され、安楽死の処置がとられた。そんな大けがだったにもかかわらず、故障発生時、サイレンススズカは何度となくバランスを崩しながらも最後まで立ち続け、武を背中に背負い続けた。
「なかなかいない。あのトップスピードで、あれだけの骨折をして転倒しない馬は。僕を守ってくれたのかなと思いましたね。今でもすごくよく、サイレンススズカのことを思い出すんですよ。せめてあと数百メートル、走らせてやりたかったな。うん、すごい残念。今でも悔しいですもん」
あの日の晩、武は何人かの知り合いとワインを痛飲した。
「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。夢であって欲しいな、って」
なおもその晩のことを尋ねると、「その話はもういいですよ」と急に笑顔を引っ込めた。聞かれたことにはプロとして最低限答えるが、これ以上は立ち入らないで欲しいという意思表示に思えた。
もう少し先の話を聞きたいと思ったところで、三度、扉が閉められた。武は今も愛馬の死を背負っていた。
※週刊ポスト2013年12月6日号