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春画の衰退 天保の改革で「遠山の金さん」が取り締まった為

 12世紀に誕生し、江戸時代の木版技術の進歩で一気に活況を呈した「春画」文化。それが絶頂と衰退を見せたのは、江戸後期のことだ。

 1804年に歌川豊国が出版統制令によって処罰され、歌川派は春画制作を自粛するが、1822年に豊国は『逢夜鷹之声』で制作を再開した。以降、春画界は豊国一派が牛耳る。弟子の歌川国貞は1835年に『艶紫娯拾餘帖〈えんしごじゅうよじょう)』を発表、多彩な摺色に加え金銀摺り、艶摺り、空摺りなど木版技術の粋を集めてみせた。『春画と人びと』(青土社刊)著者で、春画研究の第一人者である白倉敬彦氏が語る。

「この春画は浮世絵技術の最高峰。贅沢を徹底的に禁じた幕府の政策に、禁制の春画が一矢報いたわけです」

 歌川国芳も負けてはいない。『華古与見(はなごよみ)』で兄弟子顔負けの技術を駆使しながら、作画において比類なきエクスタシーの表情を追究した。当時、オーガズムを描いた絵画は、世界に春画しか存在しなかった。だが、春画は頂点を極めつつも商業主義に流されていく。

「1941年の天保の改革で、春画は徹底的に弾圧されました。数ある傑作は版木ごと押収されてしまいました」(同前)

 取り締まりを主導したのは“遠山の金さん”こと、北町奉行の遠山左衛門尉景元。庶民の愉しみを踏みにじった奉行の差配により、春画は衰退の一途をたどっていった。しかし、その神髄は、明治以降も脈々と息づき、戦後にエロ漫画という形で生まれ変わることになる。

※週刊ポスト2014年8月15・22日号

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