神戸連続児童殺傷事件犯人の「元少年A」による手記『絶歌』(太田出版)をめぐる議論がつきない。この本を「この程度の内省や分析しかできない段階で出版されるべきでなかった」と断じる、『地獄の季節』や『「少年A」14歳の肖像』(共に1998年刊 現新潮文庫)で当時14歳のAを描いた作家の高山文彦氏に、『絶歌』の評価できる点についてきいた。
──逆に言うと評価できる点は?
高山文彦(以下、高山):まず何よりも、彼がこの手記を書こうとしたことですね。結果的には自分の書きたいという欲望を未整理なまま出版したことで本末転倒にはなったけれど、書こうとした気持ちは評価してやりたいと思う。彼自身、〈書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした〉と書くように、書くこと=生きることを選んだ彼の意志を、第三者が否定できるはずもないと私は思います。
それと祖母の話。彼にとって祖母の死は初めての喪失体験で、その空洞を臆せず覗きこんだ点は評価できるし、『なぜ人を殺してはいけないのか』とテレビで問う子供を観て、〈どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください〉と正直に書き、その問いに〈一生答え続けていこう〉と書いたのもよかった。
〈一方彼は弱肉強食の論理についても書いている。つまり現代においては〈情報を生みだせる人間〉が強者で、〈シェアするだけの人間〉が弱者だと端的に分析する。〉
高山:(Aが住んでいた)友が丘一帯に電波を発信する情報基地タンク山を殺害場所に選んだのは象徴的でした。〈“イメージ”と“情報”と“言葉”。この三つが僕のリーサルウェポンだった〉と書く彼は、あくまで発信する側の自分を演出したかったんだろうし、酒鬼薔薇事件とは文明批評的な犯罪でもありました。