幕末、開国を迫る米国と互角以上に渡り合い、日本に外交的勝利をもたらした「侍」たちがいた。外交交渉に求められる人材、能力とは一体何なのか。作家・歴史家の加来耕三氏が現代につながる視点を考察する。
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「日米和親条約」と「日米修好通商条約」この2つの条約の締結は、日本が“無理やり”開国させられ、不平等条約を“押しつけられた”出来事として理解されている。だが、事実はそうではない。
1854年2月13日(嘉永七年正月十六日)、ペリー提督率いる米国の黒船艦隊が大砲をちらつかせ再び浦賀沖に現われた。来航の目的は、「漂流民の保護」「外国船への燃料・食料の供給」「貿易の開始」という3つの要求を日本に呑ませることだった。
第1回交渉の際、日本側全権・林大学頭復斎は、特に3番目の交易要求を、「我が国の法によって難く禁じられている」ときっぱり撥ね除けた。林は、幕府の儒官として文教を担った林家の当主である。
ペリーは日本が漂流民を虐待していると非難した上で、米国がいかに強大国であるかを強調。「もし貴国において、これまでの政策を見直さなければ、敵国と見做すほかはない。敵となれば戦争も辞さない」と恫喝してきた。
それでも林は怯まない。ペリーの認識が誤りであることを説き、「わが国は善政を敷いているにもかかわらず“非道の政治”と決めつけられるのは迷惑千万。双方共に積年の恨みがあるわけでもない。強いて戦争に訴えるまでもないと思うが、どうか」と切り返し、ペリーを沈黙させた。