「討死」や「謀殺」、「自決」によって英雄の最期はドラマチックに語り継がれるが、「病」に苦しみ、「病」と闘い、「病」に斃れた歴史上の人物の悩みはあまり知られていない。黒田官兵衛(1546~1604年。享年57)の死因は何だったのか?
秀吉の天下取りに類いまれなる頭脳をもって貢献した名参謀。晩年は家督を子・長政に譲り九州へ隠居。1604年に病没するが、死因は梅毒が有力視されている。官兵衛が頭巾を愛用したのは側頭部の腫れ物を隠すためとも。
腫れ物は梅毒によるゴム腫と考えられる。また、悪事を働いた者に対し激高するかと思えば急に許し、また折檻するなどの奇行が目立った。これも梅毒が脳に障害をきたした症状と考えられる。
※病名などについては『戦国武将の死亡診断書』(酒井シヅ監修/エクスナレッジ刊)などを参考に記したが、病名や死因については諸説ある。生年・没年については『コンサイス日本人名事典』(第4版/三省堂)などを参考にした。享年は満年齢を基本としたが、出生・死亡日が不祥のものは数え年で表記したケースもある。
■監修/酒井シヅ(順天堂大学名誉教授)
※SAPIO2016年6月号