ふつう人間は、自らの行動の結果を、その行動の前に想像してみる。それは将棋の手を読む事に似ていて、100手先を考えて行動する智将もいれば、2手先までしか想像しない者もいようが、とりあえず想像する。
しかし「知的クリーチャー」にはこの想像力が欠如している。次が王手になることがわかりきっているのに、いきなり自分の王将を相手の飛車の前面に差し出す。
将棋のルールがわからないのではない。相手の1手先、相手の心理、ごく近い未来の自分と他者の関係性すら想像することができないのだ。彼らの動機はシンプルである。「やりたいから」。デマを流して何を目指したいのだろうか。社会の変革か。あるいは特定の誰かへの経済的ダメージであろうか。いや何も無い。ただ「やりたいから」やる。
この垂直性こそが彼らがクリーチャーである由縁である。こうなってくると彼らクリーチャーと対話することは不可能である。
罪悪感の無い人間に、それが悪であると教える方法は対話ではなく法による強制力しかない。逮捕され身柄が拘束されれば、当然「やりたいから」という理由でデマを流すことはできない。それ以外に防ぎようが無い。怪物を倒すのは法と物理的制裁である。
少し前、コンビニや飲食店のバイト店員が、冷凍ケースに寝そべったり、食器洗い機に足を突っ込んだりする写真がSNS上に流布されて大きな問題となった。
彼らは当然、法的にも社会的にも制裁を受けたが、取り調べに際し異口同音に「何が問題であるのか、指摘されるまでわからなかった」というニュアンスの受け答えをした。閉鎖的で同質的な人間関係の中で、批判精神が欠如した馴れ合いの空間には「知的クリーチャー」が発生しやすい。
有名な「スタンフォード監獄実験」はその典型である。閉鎖空間の中にいると、人間は異常を異常とも思わなくなり、想像力を失っていく。知的クリーチャーは先天的なものなのか、それとも後天的に発生するのかは今後の研究の進捗しだいであろう。
ネット空間こそ、もっとも閉鎖的空間である。見かけは自由に開放されていながら、実際に人々はSNSで自分と同質な人としか会話をせず、交流しない。極左は極左同士、極右は極右同士のコミュニティを囲い込むのがSNSの人間空間である。この空間こそ、まさに「知的クリーチャー」を培養する腐葉土だ。
●ふるや・つねひら/1982年北海道生まれ。立命館大学文学部卒業。主な著書に『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』(PHP新書)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮新書)など。近著に『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コア新書)。
※SAPIO2016年7月号