安保闘争敗北後、ほとんどの若者たちは社会に居場所を見つけて、それなりの地位を手に入れた。そんななか唐牛は経済成長に背を向けるようにヨットスクールの経営や居酒屋店主、漁師など職を変えながら日本各地を転々と漂流して、47歳の若さでこの世を去った。
漁師時代、正義感の強い唐牛は、血の気の多い漁師に苛められる中学を出たばかりの少年をかばうが、逆に殴り倒されて血みどろになりながらパトカーのサイレンを聞いたというエピソードを残している。安保後、人の上には立たず、市井の一員として生きた唐牛らしい話である。
「唐牛はいつも明るかった」
唐牛を知る人たちの言葉の裏には、自分たちとは違って高度経済成長の波に乗ろうとせず無名の庶民として生きる唐牛への引け目があったのではないか。
日本社会が経済的に成熟して大衆化していくなか、唐牛は「何者か」になることを拒み愚痴ひとつ零さずに生き抜いた。安保闘争のカリスマは、大衆化する一方の社会を否定も肯定もせず、大衆のひとりであることを自らに課していた。
敗北後の唐牛の歩みとその強靭な精神は、ノンフィクションを殺した張本人だと名指しで批判され、3年近くの休筆を余儀なくされていた私をどれだけ勇気づけてくれたか分からない。
唐牛を書くことはノンフィクションの初心に戻り、取材の現場をくまなく歩く原動力になった。
構成■山川徹
※週刊ポスト2016年9月2日号