バチカンの公用語はラテン語ですが、バチカン放送局では39か国語に翻訳して放送しています。局内では放送言語ごとに部屋が用意されていて、日本向けの部屋には紺色の暖簾がかけてありました。
私が最初に訪問した2002年には、すでにFM放送や短波放送からインターネット放送に切り替わっていました。この年に、私も握手して確かに生きていた、ヨハネ・パウロ2世の死亡時のニュース原稿が既に作られていて、日本語翻訳も済んでいるとのことでした。実際に亡くなられたのは、この3年後でした。
東西冷戦に反対していたヨハネ・パウロ2世はソビエトKGBが放った刺客に狙撃されました。1981年サンピエトロ広場でオープンカーから手を振っていた際に銃撃を受けて重傷を負ったのです。
銃弾は2発命中し、その1発は貫通、他の1発は大動脈から数ミリの所で止まっていました。血液の60%が出血で失なわれ、大腸を22cm切除して腸瘻造設術が施術されました。4日後、教皇は病床から「狙撃者を許す」とコメントを発表しました。退院後に教皇は刑務所へ行って、狙撃者アジャに面会して直接許すことを伝えています。
●たなか・まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に生まれる。東京慈恵医科大学卒業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医として勤務。1990年に西明寺境内に入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医、僧侶として患者と向き合う。2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月と自覚している。
※週刊ポスト2016年9月9日号