決して悪意で遠ざけているわけではないのだが、メンタル不調でもどうにかこうにかやっている当人からしたら、「やっぱり自分がダメだから、みんなに迷惑をかけてしまっているんだ……」と自責のもとになりやすい。うつ病などメンタル疾患の当人の多くは、「誰もわかってくれない」という孤独を抱え苦しんでいる。まわりが「頑張れとも言えないし」と腫物を扱うように距離をとると、孤独アンテナがその空気を過剰にキャッチして、さらなる苦しみに追い込んでしまいかねない。
いや、最近の特に若者は、メンタル不調を自分のせいではなく、他人のせいにするらしいじゃないか、という反論があるかもしれない。たしかに一時期、社会問題として流行ったいわゆる「新型うつ病」は、自責をこじらせるのではなく、他責思考を強め、自分のメンタルの調子が悪いのは会社がブラックだからだとばかりに、診断書を片手に休職を繰り返すなどする人が急増している、ということだった。
その実態や原因については、専門家によっても見方がバラバラで、そもそも「新型うつ病」はマスコミが作り出した非医学用語だからか、国内で行われた信頼できそうな疫学調査もいまだに私は探せない。
だが、複数の精神科臨床医にあたっていくと、いまでも深刻なのは自責傾向の強い旧来型のうつ病のほうで、患者数もそちらのほうがずっと多い、との声ばかりだ。若者も含め、今でも不調を自分のせいと考え、落ちこぼれの孤独の穴のようなところに入ってしまう、そういう昔ながらのタイプが問題の主流なのだそうだ。
では、そうして心の調子を崩している同僚や仲間、あるいは家族に対し、周囲の者はどう接すればいいのか。
そこでしばしば登場するのが、「受容」「傾聴」「共感」の3セットである。相手がどんな状態であろうが存在そのものを全肯定する「受容」、相手が理解しがたい何を言おうがとにかくその声に耳を傾ける「傾聴」、そしてその気持ちがどんな内容であろうが相手を評価せずにただ感じることに専念する「共感」が、調子を崩した人とのコミュニケーションの基本だというわけだ。
だが、この“正論”を聞くたびに、正直、言葉の空回り感を覚える。「受容」「傾聴」「共感」は、欧米のカウンセリング理論由来のもので、あくまで精神科領域に関わるプロの技術の一部なのだ。使いこなすには、相応の訓練を要する。それを素人に求めてもなあ、と思うのである。