「“あの時、神戸製鋼が声をかけてくれなかったら、今の自分はない”というのが彼の口癖。入社後は日本選手権で7連覇をなし遂げて“恩返し”するとともに、神戸にも愛情を注ぎました。7連覇の2日後の阪神・淡路大震災ではラジオで『みんなで立ち上がりましょう』と呼びかけ、自分の家も倒壊したのに、建物の下敷きになっている被災者を懸命に助けて回った。地元の小学生ラグビーチームが練習場がなくて困っていると、神戸製鋼にかけあって練習場を貸してあげたり。本当に義理人情に厚い男でした」(前出・知人)
1997年、低迷する日本代表の建て直しのため、「やりたいようにやっていい」とラグビー協会に請われ、日本代表監督に就任。平尾さんは次々に新しい方針を打ち出した。
当時はタブー視されていたが、多くの外国籍の選手を代表に招集し、主将も外国人選手に任せた。代表選手の待遇改善を求め、練習時間を見直した。それまで各地域に別れていたリーグの統合を提案し、数年後のプロ化まで模索した。ラグビー界のみならず、スポーツ界にも新風を巻き起こそうとしていた。
「平尾には先見の明がありました。10年先、20年先を見据えた改革を進めていたんです。ですが、保守的なラグビー界からは“調子に乗っている”と批判され、理解されなかった。平尾の改革は、時代の先を行きすぎていたんです。でも、昨年のW杯での日本代表の快進撃を見てください。日本のラグビーはまさに平尾の提唱してきた通りに進歩して、結果を出したじゃないですか」(大八木さん)
今では五郎丸歩のような人気選手がファッション誌の表紙を飾ることは当たり前に。外国人選手が桜のジャージーを着ていても、何の違和感もない。2002年には「トップリーグ」という全国リーグができ、今では多くのプロ選手が活躍している。それはすべて平尾さんの存在があったからこそ。
2019年、日本で初めて開催されるラグビーW杯に彼がいない痛手は大きすぎる。
※女性セブン2016年11月10日号