◆刃傷事件は「塩」をめぐる経済戦争だった
吉良邸討ち入りの発端となった松之廊下の刃傷事件。内匠頭が上野介を斬りつけた理由は不明なままだ。その謎を解く鍵が浅野・吉良両家が財政の柱としていた「塩」であることを示唆する話が複数ある。一つは、上野介が塩の生産技術の伝授を求めたところ、内匠頭がこれを断ったとするもの。その遺恨により両者の関係はこじれた。
「当時、塩は貴重なものでした。江戸時代の遺構から赤穂の塩壺がいくつも出土しており、かなり流通していたことがわかります」(歴史研究家・川口素生氏)
さらに、吉良家の領地で作られていた「饗庭塩」と赤穂の名産「赤穂塩」の間で販売上のトラブルがあったという話も伝わる。その記録も残されているという。
「(両者が)塩の販路を巡り、美濃の笠松と遠江の気賀宿で問題となったと日本製塩技術史に造詣が深い廣山堯道氏が発表しています」(川口氏)
あくまでも状況証拠ではあるが、事件の引き金が「経済戦争」であった可能性も考えられるだろう。
◆「罪人」を「義士」に変えた明治天皇
見事仇討ちを果たした義士たちは元禄16年2月4日(1703年3月20日)、切腹に処されている。この事件を幕府は仇討ちとは公式に認めず、義士たちは罪人として扱われた。それを大きく変えたのが明治元年(1868年)の東京行幸だ。
明治天皇は10月に江戸城に入城し、東京城と改称しました。そして11月5日、義士らが埋葬されていた泉岳寺に勅使(天皇の使者)が派遣され、四十七士を表彰しました。これをきっかけに、公式に『忠義の者』と認められたのです」(川口氏)
この表彰は義士たちの評価を変えただけではない、と前出・泉氏は言う。
「楠木正成よりも先に表彰されています。これは密かに赤穂事件が天皇家で連綿と語り継がれていた証しだと思います」(泉氏)
討ち入りから300年以上経過した赤穂事件には多くの謎が残されている。そのこともまた、忠義の士による自己犠牲の精神とともに、多くの人たちを引きつける魅力なのかもしれない。
■取材・構成/浅野修三(HEW)
※SAPIO2017年1月号