亡命から10年後、井伊家の滅亡を謀った小野政直が亡くなり、直親は南信州から井伊谷に戻り、僧籍に入った直虎に代わって宗家の養子となる。直親は直虎と結ばれることなく、別の女性と結婚し、やがて虎松、後の直政が誕生する。
ここで南渓和尚の予想通り、直虎の出番がやって来る。永禄5(1563)年、今度は小野政直の嫡男で井伊家の家老小野政次が、今川義元の嫡男氏真に「直親が謀反を起こそうと企んでいる」と讒言し、直親を殺害してしまうのだ。小野が今川に讒言し、井伊の滅亡を謀る──同じことが2代続けて起こるとは恐ろしい因縁である。虎松はまだ3歳。翌年には直虎の曾祖父直平も病死し、3年前の桶狭間の戦いでは直盛が戦死していた。そうして井伊家の跡取りはいなくなってしまった。
そこで、南渓和尚の説得で直虎が虎松の養母となり、井伊家の家督を継いだ。直虎と名乗ったのはこのときだ。
直虎は身の丈6尺近く、サラシをきつく巻いて胸の膨らみを押さえ、常に大小の刀を身につけていたという。運命を受け入れ、覚悟を持って生きた人間の緊張と凜々しさが目に浮かぶ。
今川氏真の圧力に屈し、直虎の城主時代はわずか3年と短いが、残された書面には「次郎法師直虎」の署名とともに、男にしか許されなかった「花押」(署名を文様化したもの)が押されている。歴史上、直虎以外にも女性の城主、大名はいたが、花押を押した例は珍しい。それだけに、直虎がとことん男として振る舞い、また周囲に認められていたことが想像できる。
直虎は退き、龍潭寺で仏門に戻り、虎松は紆余曲折を経て母の再婚相手の養子となる。そして、天正3(1575)年、南渓和尚や直虎らの画策により、家康の小姓となり、出世の道を歩み始める。
直虎は天正10(1582)年に40数年の生涯を終える。虎松が元服して直政を名乗ったのはこの後である。すでに22歳で、元服するには数年遅い。元服すれば名実共に井伊家の跡取りとなる。だから、直虎の恩に報いるため、その存命中は元服しなかったのだ。
今、龍潭寺の境内には井伊家代々の墓があり、直親の隣が直虎である。「いつか一緒に」という夢が叶ったのだ。直虎は、鬼籍に入って初めて女性としての幸せを掴んだのかもしれない。
撮影■太田真三
※週刊ポスト2017年1月1・6日号