ドラマを見た知人の母親は言いました。
「もしかしたら私も、同じような母親になったかもしれない。でも、私は娘の後をつけたりストーカー的な行動なんてしない」
ドラマゆえの極端で刺激的な演出に、むしろ救われていたようです。「私はあそこまでひどくはない」と。しかし、「母と娘の過剰な関係」の構図は似通っている。現実の中では一人ひとり、形は少しずつ違うけれど、支配の構図は同じ。
娘も幼い時から母に従わないといけないことを暗にすり込まれているから、時々怒りを抱えながらも母と離れることができない。「いや」と言えない。はねのける勇気がない。そもそもそうする力が備わっていない。スポイルされている。
おそらく、男性の方々がこのドラマに「ピンとこない」という理由は、母と娘の間にある「動物的」とも言える心の探りあいを実感できないからかも。女のセンサーの強烈さを、体感したことがないからかもしれません。
女の動物的な勘は、夫の浮気をすぐ見抜いてしまうことでも知られていますが、癒着した母と娘の間でもセンサーは常に働いています。ふとした娘の言葉、目つき、手振り、しぐさ、持ち物など細かな変化から心を読む母。常に目を光らせ、自分と同じことを考えるようしむけていく。娘の方も、その母の心の動きを先読みして、「よい子」になって従おうとする。
かつて「毒母」「母源病」という言葉も生まれましたが、母-娘関係の苦しさ、過酷さに悩む人々にとって、このドラマはカウンセリング的な作用を持ち、問題解決の糸口の一助になりうるのかもしれません。
「怖い」のに「見てしまう」のは見たくない現実を直視し、何らかの脱出の手がかりを探そうとしているからかもしれません。
「私だけではないんだ」。他に悩む人がいることを知ると、人は強くなる。問題に気付き、そこから外へと脱出していく道筋と勇気をドラマは視聴者と一緒に描き出そうとしているのかもしれません。
だからこそ、このドラマがどこに決着を見出すのか、非常に興味があります。娘が家を出て母と距離をとるだけでは、問題は解決しないから。結婚、出産、育児と続いていく人生の中でこの複雑な問題をどう決着させればいいのか、考えさせられてしまいます。
このドラマで特筆すべきは役者陣の力。斉藤由貴と波瑠の「母・娘」の苦しさが非常にリアル。そしてその間に入っていく、希望の存在として柳楽優弥の演技が実に清々しく、爽やかな味を出していて救われます。