とはいえ、脚色はあるにせよ巌流島での決闘は事実であり、晩年の武蔵が熊本藩に客分として身を寄せていたことから、実際に高名な兵法家であったことは間違いないだろう。そんな武蔵の事跡を語る史料の中に、ある合戦に参戦した記録がある。
養子・伊織と共に出陣したとされる「島原の乱」(1637年)。かつて島原を治めていた有馬家の原城には一揆衆が立てこもっていた。その鎮圧に際し、有馬直純の武功に関する記録を後日談も含めて保存した『有馬家文書』の中に、「宮本武蔵書簡」として残されている。
その一つに一揆鎮圧直後、有馬直純への返書として武蔵が書いた書状があり、「敵の落とした石に当たって、脛も立てないでいる」と書かれ、戦で負傷したことがわかる。
名うての剣豪であっても一揆衆の“投石作戦”の前では今ひとつ腕を振るうことが叶わなかったようだ。
ちなみに、前述の小倉碑文には「関ヶ原の合戦、大坂の陣で大活躍したが語り尽くせないので省略する」と記されている。脚色できないほどの残念な結果だったのだろうか。
【PROFILE】山本博文/1957年岡山県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。文学博士。『江戸お留守居役の日記』(講談社学術文庫)、『日本史の一級史料』(光文社新書)など著書多数。
※SAPIO2017年4月号