当時の公家の日記である『時慶記』(西洞院時慶)や『晴豊記』(勧修寺晴豊)には、利休が茶器の取引で不正に儲けたことが露見したため「逐電した」と書かれている。つまりさっさと逃げて行方をくらましたというのである。
また伊達政宗の家臣、鈴木新兵衛が国元の石母田景頼に宛てた書状(『伊達家文書』)にも、「利休は行方不明であり、代わりに木像が磔にされたため前代未聞と評判となり、その木像の隣に罪状を書き上げた高札が立てられていた」とある。やはり切腹については書かれていない。
利休が切腹せずに逐電=逃走し、生きていたのであれば、前述した秀吉の書状とも矛盾が生じない。
とはいえ、この機に利休が社会的に抹殺されたことは間違いないだろう。利休の逃走を手引きしたのは、茶の弟子であり初代小倉藩主の細川三斎(忠興)である可能性が高い。
秀吉が利休の茶を飲んだ場所が九州の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)であることに加え、三斎は利休の嫡子・千道安に、領国・豊前国の三〇〇石を領地として与えていたことが細川家の家史『綿考輯録』に記されている。この領地は、活動拠点が堺であったはずの道安ではなく、九州に匿われていた利休に贈られたものと考えるのが自然である。
その場所で、歴史の表舞台から去った利休は、ひとり茶の湯を追求していたのかもしれない。
【PROFILE】中村修也/1959年和歌山県生まれ。筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は茶の湯文化史と東アジア交流史。『利休切腹』(洋泉社刊)など著書多数。
※SAPIO2017年4月号