最近のお墓は、様々に進化している中で、どの形式のお墓を選ぶか迷う人も少なくない。今回は、自身の希望の自動搬送式のお墓と、夫が希望する「外墓」と自身が希望する「室内墓」の間をとって今年1月に徳島から東京・渋谷区代々木の立正寺の中にある「仏壇型の納骨堂」へ改葬した岡田美子さん(仮名、58才=東京都)のお墓事情を、ノンフィクションライターの井上理津子さんがレポートする。
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実は岡田家は、四国・徳島県からの改葬で、「東京にお墓を」には少し複雑な経緯があった。
美子さんの夫の祖父母が徳島県から関西に出てきた人で、夫は関西の生まれ育ち。大学から東京に来て40年余りになる。妻の美子さんは東京近郊の育ちだ。
一家のかつてのお墓は、徳島県内の昔ながらの共同墓地にあった。義父は「分家」。関西暮らしの方が長くなっても「本家」のお墓の側にお墓を建て、関西に移さなかったのだ。しかしながら義父母は信仰深かったので関西の自宅には、隣市にある同じ宗派のお寺から「月参り」に来てもらっていたという。義父は、美子さんが結婚した4、5年後に亡くなった。義母は長くひとりで暮らし、高齢になってから東京に引き取った。美子さんの家の近くの老人ホームで昨年亡くなったという。
「私、義母が大好きだったんです。徳島のお墓は遠すぎる…」と美子さんは言った。夫婦で、代々のお墓をたたみ、東京へ改葬する勇断をしたのだった。実は、私は岡田家が徳島のお墓をたたむ日、立ち会わせてもらった。
共同墓地はターミナル駅から車で20分ほどの山裾にあったが、岡田さん一家より、少し早めに着いた私は、そこに広がる光景に、目が点になった。まるで廃墟だ。木々が鬱蒼と茂る中に、朽ちかけた小さな無縁墓が無数に点在していたのだ。
その数たるや。80基まで数えてやめたが、少なくともその倍以上認められた。草をかきわけ近づき、小さな墓石の数々を見る。刻字はほとんど解読できない状態に風化していたが、「元禄二年 又兵衛」「明治六年 菊」と読めるものが含まれていた。苗字のない時代の庶民の個人墓だ。
それらの間に、ひときわ大きな堂々たるお墓が聳えていた。岡田家の本家のお墓だった。また、比較的足場のいい場所には「昭和」の建立年が刻字された「○□家」「××家」のお墓もあり、その中に「昭和三十五年」建立と記した「岡田家」のものがあった。