だが、いまの若者たちにはそんな「常識」は「非常識」になったようだ。台湾独立という政治的現実はいまなお遠い。しかし、その考え方は台湾社会にすでに溶け込んで、まるで青空に漂う雲のように、堂々と可視化されている。
その変化の淵源が、実は、日本で独立を掲げた戦ったタイワニーズの傑物たちにあったことは、意外なほど日本では知られていない。
台北で、白いスーツと白髪をトレードマークとする洒脱な90歳の老人と向かい合った。若い頃はプレイボーイで名を馳せて銀座を闊歩し、現在は民進党の影のスポンサーとも言われる。
台湾メディアに「独派大老(台湾独立派の長老)」と形容されるグー・クワンミンは台湾きっての財閥・辜(グー)家の八男だった。1947年に起きた蒋介石・国民党政権の民衆弾圧「2・28事件」で身の危険を感じて香港経由で日本に逃亡。日本で結成された台湾青年社(のちの台湾独立建国連盟*注1)に参加し、1965年から1970年まで委員長も務めた。 「私にはちょっとした資金があった。どんどんお金を投じて(連盟の機関紙)『台湾青年』という刊行物を世界中で発行し、組織を拡大させたんです」
(*注1:1960年東京で王育徳を中心に台湾青年社が成立、「台湾青年」の発行を始める(02年、停刊)。1963年、台湾青年社を台湾青年会に改称、黄昭堂が委員長に。1965年、台湾青年独立連盟に改称、グー・クワンミンが委員長に。その間、逮捕者を出した1964年の「陳純真事件」1968年の「柳文卿事件」などを経験しながら運動を堅持。1970年に台湾独立連盟に、1987年に台湾独立建国連盟に改称。1992年に連盟幹部の入国禁止が約30年ぶりに解かれる。)
若い仲間たちはグー・クワンミンの大胆さに惹かれた。が、のちに「追放」の憂き目にあう。19721972年の「蒋経国面会事件」が引き金だった。