◆過酷な戦場の中で
戦争に関するノンフィクションを数多く執筆している私にとって、中支、南支を二千数百キロにわたって行軍し、戦史に残る激烈な戦闘をくり広げた歩兵第236連隊は、いつかは書かなければならない存在だった。同連隊は、ほとんどが高知県出身者で占められていたため、部隊の通称号は「鯨」で、彼らは「鯨部隊」として勇名を轟かせていた。
昭和14年に編成された同連隊には、延べ1万人を超える兵隊が所属し、戦死者は2千数百人に達した。行軍で脱落し、自決した人も少なくない。その過酷な戦場で「南国節」は生まれ、歌い継がれたのだ。
〈南国土佐を後にして
中支へきてから幾歳ぞ
思い出します故郷の友が 門出に歌つたよさこい節を
土佐の高知のハリマヤ橋で 坊さんかんざし 買うを見た〉
〈月の露営で焚火を囲み
しばし娯楽のひとときを 俺も自慢の声張り上げて 歌うよ土佐の よさこい節を
みませ 見せましょ浦戸をあけて 月の名所は桂浜〉
作者が誰かもわからないこの歌は、故郷土佐を遠く離れて戦う兵たちの心の拠り所となった。冒頭の「中支へきてから幾歳ぞ」という歌詞は、まさに兵たちの気持ちそのものであり、これを歌うことで、故郷に思いを馳せ、勇気を奮い立たせる独特の味があった。
人間誰しも、家族に会いたい。親、兄弟、妻、子供……兵たちには、それぞれの家族がいた。果てしない行軍で、中国の山河を歩きつづけた兵たちは、故郷と家族を思い浮かべた。
(帰りたい)
人であるかぎり、その思いは共通だ。しかし、それを口にすることはできない。その思いをまぎらわす方法は、この曲を歌うことだけだった。今年95歳となった鯨部隊の元騎兵、渡辺盛男氏はこう語ってくれた。
「この歌は、勇ましい歌ではなくて、しみじみする感じじゃね。行軍しながら歌うがよ。土佐のことを思いながら、みんな行軍しよったきね。歌なら小声で歌うがは誰にもわからんき、勝手よね。怒られもせん。気分がやっぱり違うわね」
それは、兵たちの心の支えともいうべきものだった。
「昭和18年までは満期除隊ができた。けんど、それ以降はできんなって、誰も除隊を考えんようになった。それで、この歌をよけ歌う(多く歌う)ようになったがよ」
渡辺氏は、そう振り返る。
「南国土佐は、それぞれが自分のことに置き換えて歌うたと思うわね。家のことを思うて“故郷の友”を“故郷の親父やお袋”に、それぞれが置き換えて、歌を受け止めるわけじゃからね。ええ歌じゃったと思うよ」