まずは〈中国のど田舎の貧乏な家庭に生まれたのは幸運でした〉と書く著者の祖母、野村志津の物語から。1935年、兄を頼って渡満した志津は福井県小浜市出身。満鉄職員と結婚し、3人の子供にも恵まれたが、戦後の逃避行の中、寒さと飢えで子供を次々に亡くし、力尽きそうになったところを、のちの夫・石相臣に助けられた。そして日中国交回復の翌年、癌に冒されながら32年ぶりに故郷の土を踏んだ祖母のことを、野村氏は古い新聞の切り抜きで読んだという。
「その1973年7月17日付の記事で〈中国から涙の帰郷〉と報じられた祖母は、8月1日に親兄弟に看取られて亡くなりました。僕は会ったことはないんですが、自分がここにいる奇蹟に感謝する一方、戦争は二度とあってはいけないと心から思います」
子供が生まれる度に罰金を払いながらも懸命に働いた両親は、5人目でようやく誕生した長男が丈夫な子に育つようにと石磊と命名。が、彼が物心ついた頃には〈藁と土〉でできた家に一家7人が暮らし、主食はトウモロコシの粥。正月に餃子を食べるのが唯一のご馳走だった。
「当時はうちだけじゃなく、周りも貧しかったんです。中国のGDPを見ても僕らが日本に来た1995年くらいが急成長が始まる前で、それに比べたら毎日白いご飯が食べられて、何でもある日本は、なんていいとこだろうと。しかも日本では新聞を配るだけで父が中国で1年かけて稼ぐくらいのお金がもらえて、欲しいものまで買える自分は、恵まれているとすら思ってました」
そんな自立心に富む野村氏は1995年、練馬区の小学校に編入し、言葉や文化の壁を一つ一つ乗り越えた頃、ゲームとの邂逅を果たす。
「それまでゲームを見たこともなかった僕には、自分の操作が具体的に反映され、友達と協力したり競ったりしながら遊べるのが楽しくてしかたなかったんですね。特にその仕組みに興味があった僕は、中学生になるとパソコンを自分で買いプログラミングも独学で学びました」