「最初にお会いした時から仲のいいおふたりでした。肢体不自由な子供たちの描いた絵の好みについて、天皇陛下が『いいね』『かわいいね』とおっしゃると、美智子さまが『私はこれもです』と返される。何歩か下がって慎ましいたたずまいでありながら、妻が自分の意見をそっとお伝えになることのできる関係性が素敵です」
◆決して平坦ではなかった道のり
夫に寄り添いながら、芯が強く進歩的な妻であり母である。そんな戦後を生きる日本人女性のお手本となるような存在が、美智子さまだった。
両陛下のご関係を物語るのが1984年4月の銀婚式記念会見だ。「お互いを採点なさるとしたら何点くらいですか」との問いに、天皇陛下が「点をつけるのは難しいが、努力賞を」とおっしゃると、美智子さまはこう返された。
「私もお点ではなく、差し上げるとしたら『感謝状』を」
この言葉に深く感銘したのは佐伯さんだ。
「ああ、こういう表現の仕方があったのか、と聞いているこちらまで品格が上がるような感銘を受けました。配偶者への思いを表現するには、『感謝状を差し上げたい』と言えばいいのだなと、お手本を示してくださった」
だが、そこに至るまでの道は決して平坦ではなかった。
一般的に見れば、これまで紹介したように美智子さまの“改革”は好意的に受け止められたが、慣例主義の皇室内部では“逆風”が吹き続けた。
乳人制度を廃止すれば「伝統をなし崩しにする」と批判され、料理をすれば、「皇太子妃殿下ともあろうかたが台所に立って料理を作るとは」と非難される。やむことのない批判に、ご成婚パレードで見せた美智子さまの笑顔は次第に消えた。1960年秋、訪米前の記者会見では苦しい胸の内をこう明かされた。
「難しいと思うこともあるし、つらいこともあります。いつになったら慣れるのか、見当がつきません」
その後も1986年に子宮筋腫を患い、1993年にメディアのバッシング記事によって精神的な苦痛から失声症となられた。前出の中村さんは、美智子さまの苦悩と自分の人生を重ね合わせる。
「声が出なくなられたと知った時は私も倒れそうなくらいショックでした。美智子さまのご公務と一緒に考えるのはおこがましいけれど、どこへ行ってもカメラの目があるストレスは、筆舌に尽くしがたい。私は結婚後、20本以上あった生放送レギュラーを半分以下に減らしましたが、それでも家庭との両立は大変でした」
時に苦しみながらも美智子さまが尽力されたことが少しずつ“菊のカーテン”と呼ばれ、閉鎖的だった皇室の姿を変えていった。佐伯さんが言う。
「美智子さまが私たちに見せてくださった新しい皇室の姿は、陛下にとっても理想的なものだったのではないでしょうか。自分が経験することのできなかった家庭生活や子育てをしたいという願いを、全部美智子さまがかなえてくださったように思えてならないのです」
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年12月21日号