それほど路面電車実現に意気込みを見せた高野区長だが、区長に就任したばかりの頃は路面電車に強いこだわりがあったわけではない。路面電車に傾斜するのは、公務でドイツ・ライプチヒに出張した際に街を縦横無尽に走る路面電車に心を奪われたからだ。そこから、路面電車を推進するようになった。
豊島区と同じような話は、愛知県豊橋市にもある。
愛知県豊橋市を本拠地とする豊橋鉄道は、路面電車と通常の鉄道の2路線を有する。このうち、路面電車は東田本線という名称がつけられている。
“本線”という名称からもわかるように、豊橋鉄道では一般的には地味で格下に見られがちな路面電車が主役になっている。
豊橋鉄道の路面電車は総延長が約5.4キロメートルと、ほかの都市の路面電車と比べても規模が小さい。マイカーの所有率が高い地方都市。さらに、世界が誇る自動車メーカー・トヨタのお膝元でもある。
路面電車にとって負の要素ばかりある豊橋市という地盤で、豊橋鉄道は積極的に“攻め”の姿勢を打ち出している。
例えば、1998年に豊橋駅はペデストリアンデッキや駅前広場などを新設。その工事に合わせて、豊橋鉄道は線路の延伸工事を実施。駅前広場内に路面電車ののりばを移設した。
駅前広場にのりばを移設したことにより、停留所の間隔が広がった。それを理由に、2005年には中間に新しい停留所を新設した。豊橋市では、路面電車が時代遅れの乗り物ではないのだ。
ここまで豊橋鉄道が“攻め”の姿勢を貫けるのは、ひとえに豊橋市という行政の支援体制が大きい。
とはいえ、豊橋市もほかの都市と同様に1970年代には路面電車廃止の機運が高まっていた。そうした路面電車廃止の機運に反対し、路面電車の存続を力強く訴えたのが、青木茂市長(当時)だった。
岐阜市出身の青木市長は、幼少期から岐阜市内を縦横無尽に走る路面電車を見て育った。そうした原体験から路面電車に愛着があった。そのため、青木市長は路面電車が走っている九州の都市を視察して回り、路面電車を活かそうと知恵を絞った。青木市長の努力は、1982年に井原-運動公園前の支線という形で結実する。
富山も豊橋も、市民間に「路面電車は市民の足」という理解を定着させるまでにはかなりの歳月と苦労を要した。
葛飾区の貨物専用線を路面電車化する構想や新しく路面電車を建設するといった話は、話題を集めやすいが、一筋縄ではいかない。
実際、区長が積極的に推進していた豊島区の路面電車構想は消滅しかけている。
第1次路面電車ブームは、業界を熱狂させるだけで終わった。しかし、今、ブーム再来ともいえる第2次路面電車ブームが起きつつある。
これまでまったく路面電車と縁のなかった栃木県宇都宮市は、ゼロから路面電車計画を練り上げた。そして、着工に漕ぎつけている。
第1次路面電車ブームの火つけ役でもあった富山ライトレールは、今年3月に複線区間を拡充。複線区間が広がったことで、増発が可能になった。また、富山ライトレールでは今年中に新しい駅の開設を予定している。
実のところ、冒頭の葛飾区の路面電車計画も初めて浮上した計画ではない。葛飾区は以前にも新金線の旅客化を検討した過去がある。
最初は路面電車ではなく、通常の鉄道として検討したが頓挫。2回目も国道6号線との平面交差が生じることによって、渋滞が深刻化するといった理由で断念に追い込まれた。路面電車ではなく、バスという手段も考えられなくはないが、バスは鉄道よりも輸送力が低い。本数を増やすことで補うこともできるが、本数を増やせば渋滞が激化するし、なによりも昨今は運転手不足でバスをたくさん運行することは覚束ない。だから、輸送力の大きな路面電車が求められている。
第2次路面電車ブームともいえる路面電車ブームの再来で、凍結していた各地の路面電車の計画は前に進むのか? 葛飾区は、3度目のリベンジに挑む。