怒れる少女の転機は、終戦だった。GHQの改革により日本の家父長制度は終焉を迎えた。翌年には女性参政権が認められて、初めての選挙が行われた。ものすごいスピードで移り変わる世の中に赤松さんは大きな衝撃を受ける。15才のときだった。
「憲法をはじめさまざまな法律ができて、財産も均分相続になり、選挙権も得られた。自由と平等を体現するような戦後の民主主義はキラキラと輝いていて、『自分さえ努力すれば女性の立場をもっと変えられるかもしれない』という希望を感じました」(赤松さん)
民主主義に後押しされた赤松さんは1947年に上京し、津田塾専門学校(現津田塾大学)で英語を学んだ後、東京大学法学部に入学した。当時、800人の学部生のうち女性はわずか4人だった。
東大卒業後、1953年に労働省に入省し、婦人少年局婦人課に配属された。銀行で事務の仕事をしていた村田和代さん(仮名・84才)が振り返る。
「仕事の内容も賃金も男女ではっきり分かれていた。私たちはお茶くみやお札の数を数えるのが仕事。明日辞めても誰も困らないような内容でした。だけど、自分も周囲も3~4年働いたら社内結婚かお見合いをして寿退社をするのが当たり前で、仕事の内容にも賃金にも疑問や不満を感じたことはなかった」
そんな時代でも赤松さんは、女性の権利拡大のために馬車馬のように働いた。私生活では大学卒業と同時に結婚。相手は大学の同級生だった。そして、当時としては先進的だった夫婦別姓を選択した。
「周囲からは『変わってるわね』と言われたけれど、私は一生仕事をしようと決めていたから、名前を変えたくなかった。夫もその気持ちをわかってくれました」
結婚して3年目には長男が誕生したが、多くの女性と同じように退職して家庭に入ることはみじんも考えなかった。
「今のように時短勤務が認められるわけもなく、子供がいながら定時で働いていました。昼間は施設に預けて帰宅後や休日は自分で面倒を見る。毎日へとへとで、思い返すとあの頃がいちばん大変だった」
◆職場における女性に対する不当な扱い
肉体的疲労に加え、周囲からの無理解も、赤松さんを追い詰めた。
「周りは『子育てが大変なら仕事を辞めればいい』という風潮。今のようにサポートしてくれるような人はほとんどいなかった。そんな苦しい状況でしたが、仕事を辞めようと思ったことはありません」(赤松さん)
仕事に心血を注いだ赤松さんは、男女平等を阻む「壁」を何度も肌で感じた。
「労働省は一般企業と比べれば男女平等が進んだ職場でしたが、同期の男性たちが転任して役職が上がるなか、私だけが女性であるという理由で役職が上がらない。そのときは本当に腹が立った。気持ちを落ち着かせるため、終業後にはお茶碗に日本酒を注いで、婦人課の女性メンバーと一杯ひっかけていました。みんな酒飲みだったんですよ(笑い)」(赤松さん)