レイテ沖海戦(同年10月)では、シブヤン海で同型艦「武蔵」が撃沈される。「大和」も前部に直撃弾を受けたが、揺れさえしなかったので戦闘中は気付かなかった。敵は高度2000mくらいを水平飛行しているが、機銃の射程は1500mくらいなので届かない。だから、敵機が急降下爆撃する時には、突っ込んで来る先で当たるようにタイミングを見計らって撃った。
激しい戦闘でレイテ湾突入直前に反転(※注)したことは分からず、ブルネイに戻ってきてから知った。
〈※注/当初作戦では「大和」など第一遊撃部隊が敵上陸部隊を殲滅するためレイテ湾に突入する予定だったが、レイテ湾目前で反転し、「謎の反転」と呼ばれた。〉
そして最後となる沖縄特攻(昭和20年4月)では、出撃前に一番砲塔の上から能村副長が「4月8日黎明に中城湾に突撃して浮き砲台になる」と訓示した。一番砲塔横の黒板に、「総員 死ニ方用意」と書かれていたのを覚えている。いったん軍隊に入れば、お国のために命を捧げるのが当然の務めであり、親孝行でもあると当時は思っていた。
4月6日出撃の際には、日本の見納めだとは思っても、自分が死ぬとはなぜか考えなかった。4月7日は朝から曇っており、午前11時頃に戦闘配置となる。そのあと電探(レーダー)から「左舷に大編隊」、しばらく経ってから「機種はグラマンF6F(艦上戦闘機)」と知らせてきた。やがて敵機が見えてきて、右舷30度のあたりで大きな白い綿雲に入ったり出たりしながら、向かって右方向へ進んでいる。その頃から天気が悪くなった。