日本国憲法によって定められた天皇は、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」である。占領下においてGHQは戦前の日本国の体制の徹底的な解体を行ったが、マッカーサーは占領統治のために「国体」すなわち天皇制の廃止に踏み切ることはせず、大日本帝国憲法に定められた「国の元首」であり「統治権を総攬する」天皇の権限を奪取して、「象徴」にすぎない存在として規定した。戦前そして戦後を通して皇統を維持された昭和天皇の後を受けて、今上陛下はこの憲法に記された「象徴」の一語に、いかに皇室の伝統精神を注入するかを即位以来、いやすでに皇太子の頃より深く考えられ、模索し、そして実践されてきた。
具体的にそれは昭和天皇が昭和二十一年二月から足掛け八年半、三万三千キロに及ぶ全国巡幸をされた意思を受け継ぎ、先の大戦で犠牲となった人々を悼む、日本全国、硫黄島やサイパン島、ペリリュー島にも及ぶ「慰霊の旅」を皇后陛下とともに自らの強い思いをもって実現されたことによくあらわれている。
また昭和天皇は災害などによって被災した人々を直接に見舞うことはされなかったが(見舞うことに不平等が生じるとの配慮があり、むしろ国民の災いにたいしては自らの国民への思いが足らぬとの自覚のもと、宮中にあって祈りを捧げられたという)、今上陛下は皇太子の時代から直に被災者のもとを見舞うことをされてきた。
昭和六十一年十一月二十九日、三原山噴火で千代田区の体育館に集団避難してきた大島島民を慰問されたときは、疲れ果て座り込んだ被災者たちが立ちあがれない様子を見ると、自ら腰を落として膝を突き話を聞かれた。それはこの国の天皇、皇室の歴史上はじめての光景であったが、以後今上陛下はつねに被災者に寄り添うことで「象徴」としての新たな「天皇」の姿を示された。そして、そうした象徴天皇としての行動のなかに、つねにこの国の祭祀王としての祈りがあり、言葉があったことを忘れるわけにはいかない。