こう話すのは施設の事務担当者。会当日、入居者家族として訪れたのはわずか二名。比較的新しい入居者であるXさんの妹、Yさんの旦那さんだけで、他の家族からは「来られない」との連絡すらなかった。施設には総勢20数名が通っているが、他に会に駆け付けてくれたのは地元のNPO法人関係者数名。たまにやって来ては入居者らと雑談をしたり、紙芝居や手品を披露して帰っていくこのNPO関係者らだが、実は裏の顔もある。
「言いにくいんですけど…葬儀の会社をやっていらっしゃるんです。老人ホームなどにこっそり営業に来られる葬儀屋さんはかなりいて、職員だけでなく、入居者とも顔見知りになっていることが、後の“仕事”につながるからでしょう。“もしも”の時、私たちがご家族から相談を受けるケースも多く、職員が普段から仲良くしている葬儀屋さんを紹介するパターンは実は結構あるんです。いや、彼らが卑しい気持ちで敬老会にきているわけではないんです。でもあまり大っぴらにもできず…」(施設の事務員)
傍から見れば「老人ホームに営業にくる葬儀屋」というイメージは芳しくないが、こうしたコミュニケーションを取っておくことで、万一の事態にも余裕を持って対応できるし、ホームによく来る××さんが、実は葬儀屋だとわかっていながら交流を図ろうとする高齢の施設利用者もいる。効率的、といえば聞こえがいいが、やはり筆者としては、その人間関係が何となく物寂しいものに思えるが…。
お祝いの会はそうして、入居者のわずかな家族と葬儀関係者、施設職員によって淡々と行われた。祝賀ムードなどほとんどないまま、会が終われば入居者たちはさっさと送迎バスに乗り込み帰っていったというから、なんとも悲しいばかりである。筆者と近しい大学生や若者に聞いても、今日9月17日が「休み」であることは答えられても、祝日である、敬老の日である、と答えられた人数は多くない。
「敬老の日っすか…へぇ…。」
祝う側も祝われる側も違和感を持ちながら迎えた、形ばかりの祝日ともいってよい「敬老の日」。いずれ「敬老の日」などなくなってしまうのではないか、それこそ筆者が老人になったころには数少ないマイノリティーのための「若者の日」なんて祝日ができているのではないか、と思わずにはいられない。