事務所創設以来、歌って踊れるアーティストの育成を目指していたジャニー氏にとって、田原俊彦はまさしく理想の素材だった。
デビュー曲『哀愁でいと』ではサビ前に脚を高く上げさせ、間奏でバク転をさせる。その後もジャニー氏はプロデューサーとして、『君に薔薇薔薇…という感じ』『原宿キッス』『シャワーな気分』『チャールストンにはまだ早い』などで、軽快なリズムで歌って踊る彼の魅力を引き出していった。
田原俊彦の存在は後輩にも大きな影響を与えていた。昨年12月5日、少年隊の錦織一清はTBSラジオ『たまむすび』で、合宿所で寝食を共にした4歳年上の先輩について話した。
〈ものすごく練習する人なんです。それ見て、僕も刺激を受けたんですけど。(新曲の)振り付けをもらった夜から明け方まで、ずっと鏡の前で、ずっと自分のモノになるまで練習が必要だ、とずっとやる人でしたね。何も考えずに動けるようになるまで、慣らして動けるようになるまではやらなきゃいけないんだと僕は教わったから、トシちゃんに〉
こうして伝統が受け継がれていったことを、ジャニー氏は誰よりも間近で感じていたはずだ。そして、独立から25年の歳月が流れても、我が子のような思いがあるからこそ、「お世話になってます」という言葉が咄嗟に出たのだろう。今も、ジャニー氏にとって田原俊彦という存在は特別なのではないか。
田原も独立後、事あるごとにジャニー氏に感謝の意を表している。2009年に出版した自伝『職業=田原俊彦』(ロングセラーズ)では、こう綴っている。
〈僕がアイドルになれたのはジャニーさん抜きには考えられない。田原俊彦はジャニーさんによって作られたといっても過言ではないからだ〉