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2019.02.26 20:30  BOOK STAND

【今週はこれを読め! SF編】総統になりそこねた男の「わが捜査」

『黒き微睡みの囚人 (竹書房文庫)』ラヴィ・ティドハー 竹書房


「その女性は、いかにも知的なユダヤ女という顔つきをしていた」という、私立探偵のモノローグからはじまるハードボイルドである。彼女は、行方不明になった妹を捜してほしいという。それ自体は、よくある依頼だ。

しかし、その妹が行方不明になった経緯が、いささか面倒だ。1933年の大転落によって、ドイツは共産国家へと変貌し、依頼者である女(イザベラ・ルービンシュタインという名だ)の父親の財産も取り押さえられてしまった。しかし、父はその人脈を駆使して、かなりの金をロンドンに移し、家族もドイツを脱出できた。そのなかで、妹ジュディスだけが取り残されてしまう。彼女は大転落前に共産主義にかぶれ、父を激怒させていた。それでも父は、ジュディスが国外へ出られるように密航の手はずを整えたのだ。ところが、シュディスはロンドンに到着しなかった。どこへ消えたのか?

 それにしても、よりによってそんな案件を、このわたしに持ちこんでくるとは!

 わたしこそが、大転落によって、もっとも人生を狂わされた当事者なのだ。大転落で共産党に政権を奪われなければ、わたしは指導者として理想国家の建設に邁進していたはずなのだ。地位を失い、必死の思いで祖国からロンドンへと逃げのび、いまはウルフと名乗り、オンボロ事務所の家賃さえ滞りがちの私立探偵に身をやつしている。

 もちろん、イザベラはウルフが何者か知って、わざわざ依頼をしてきたのだ。ドイツから亡命してイギリスの裏社会に入りこんでいる有力者に顔が利くと思っているのだろう。しかし、おあいにくさま。逆境にうまく対処してうすぎたなく肥えたヘス、女衒まがいな真似でユダヤ女を大陸から密航させているゲーリングと異なり、わたしは誇りを失っていない。

 ウルフは政治家だったころから変わらずに、反ユダヤ主義の差別意識を持ち、退廃的な風俗や軟弱な文化を憎み、変態性欲を秘め、暴力を辞さない。狷介で尊大でイヤなヤツなのだが、物語の主人公としてそれなりに読者を引きつける力を持っている。探偵としては勇敢で、どれほどぶちのめされてもまた立ちあがる。こうした難しいキャラクター造型を、作者はみごとに成功させた。

 しかし、ハードボイルド小説の主人公でも、ウルフほどの酷い目に遭う者は珍しいだろう。捜査の過程で殴られて全身あざだらけ、一張羅のスーツは糞まみれになり、警察からはぞんざいに扱われ、依頼人の父親からは無麻酔で割礼を施される。

 ジュディスの捜査だったはずが、不可解な殺人事件(殺された娼婦の胸に鉤十字が刻まれていた)に巻きこまれ、国際政治の裏で蠢く暗部へと踏みこんでしまう。イギリス・ファシスト同盟の指導者であるモズレーからは「きみを雇いたい」などと持ちかけられ、アメリカ戦略事務局のヴァージルには「このいまいましい世界のなかでもっとも偉大な国家のために働かないか」とか誘われる。

 謀略がスケールアップしていく物語の推進力もさることながら、歴史上の有名人が大勢登場してトリヴィアルなエピソードがいくつも盛りこまれるところも面白い。ハリウッドで大活躍しているレニ・リーフェンシュタールが撮影でロンドンを訪れ、ウルフと旧交を温める場面などは、ほろりとさせる。また、出版社アレン・アンド・アンウィンのパーティーに紛れ込んだウルフが、社主に『わが闘争』を拒絶したことをなじり、その場にいたトールキンを罵倒するくだりは抱腹絶倒。

 さて、『黒き微睡みの囚人』の主体となっているのは、もうひとつの歴史で共産国家となった祖国ドイツからロンドンへと逃れ、私立探偵として孤独に暮らすウルフの皮肉な運命だが、物語のあいまあいまに「時間と空間の隔てた別の世界」の情景が挿入される。そこでは、大衆向けの読み捨て小説家であるユダヤ人ショーマーが、アウシュヴィッツの収容所で厳しい毎日を送っている。彼は看守に反抗する意欲すら失っているが、作家としての精神は死んでおらず、昔ながらの陳腐な題材である殺人と暴力のドラマを夢想している。そのドラマの主役は、かつてドイツ愛国者から熱狂的に支持され、いまは異国でしがない探偵として糊口をしのいでいる男だ。

 別な世界線のロンドンと、煉獄と化したアウシュヴィッツ収容所。架空世界と現実を合わせ鏡のごとく対置する小説構成上の仕掛けと受けとることもできるが、おそらくこれは技巧的な効果を狙ったものではないだろう。むしろ、ショーマーのパートは、ウルフを視点人物とする作品空間と私たちが生きているこの世界との紐帯であり、これを経由することで、読者は『黒き微睡みの囚人』を、よそごとの物語として消費して終わりにできない。作者ティドハーは、イスラエル生まれの作家。彼の母方の祖父母はアウシュヴィッツの生き残りだった。

(牧眞司)

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