◆川島なお美さんからの叱咤と別れ
思えば私はあの時、今までの人生を捨てて生まれ変わったのだと思う。それでもその後、病状は一進一退を続けた。2014年頃はかなり深刻で、私はステロイドパルス療法や、エンドキサンパルス療法といった、かなり強い薬物の大量投与を受けた。医師たちは「これでダメなら治療方法はほとんど残されていません」という。
仕事も全くなく、かつての業界の友達に会うのも辛いような日々でも、変わらずに連絡を取り合えたのは、漫画家の大先輩の槇村さとる先生、女優の川島なお美さん、歌手の千葉はなさん、そしてデザイナーの高山尚子さんだ。みな、励ましてくれた、川島なお美さんは特に激しく私を叱咤した。「未明ちゃんには、優しいご主人がいるじゃない。それなのに死にたいなんていうなら離婚しなさいよ。今の自分の持っている幸せに感謝出来ないなんて、優しくしてくれる人に失礼よ」と。
なお美さんも、千葉はなさん、高山尚子さんも、翌年の2015年にガンでなくなった。この年ほど打ちのめされたことはない。その悲しみから立ち上がりたくて私は再び筆を執ったと言っても過言ではない。
当時の私の体力と手の力でもできるような気がしたのは版画だ。弱い線でも薬品で深く焼きこめるエッチングなら、何とか描けるのではないかと思った。指導には版画家・重野克明先生があたってくださった。最初の頃はニードルを握るのも辛く、銅板で手がこすれ、皮膚は腫れあがった。資料用に写真を撮ろうとカメラを抱えても同じ。でも私は包帯で手をぐるぐる巻きにして描き続けた。そうでなければ友人たちの鎮魂にならないと思ったのだ。
2017年、最初の版画展を、銀座の吉井画廊で開かせていただいたのは幸せだった。当時まだ創立者の吉井長三さんもご存命で、“暗さでも哀しみでも思いのままに”表現することを許してもらえた。その頃はそれしかできなかったと今でも思う。
そうした折、以前、お世話になったホテル椿山荘東京のギャラリーから、絵画展開催の依頼をいただいた。その時の私は、“明るくて美しいもの”を描きたいと自然と思えるようになっていた。人生には喜びも悲しみもある。いや、むしろ、悲しみの暗いトンネルの方が長いだろう。だからこそ私たちは美しい風景を、絵を必要とするのではないか。