確かに、秀秋は決して愚鈍でなく、「利口者」と評されるほどの才覚を持っていた。著者によれば、「勇将」になるべく努力もした。しかし若年期の秀秋に求められたのは、豊臣一門の貴人や領国支配の象徴的存在たることである。
関ケ原の「裏切り」も本人のせいか、老臣のせいか、いずれとも定かではない。秀秋は、この汚名をそそぐために、新領地・岡山で「名君」たらんと決意した矢先に病死し、領主生活は二年で終わった。兄俊定も同年同月に死ぬなど彼にまつわる謎は多い。しかし、史料の壁に阻まれて実像が不明だった秀秋に迫った意欲的な挑戦は評価されて然るべきだろう。
※週刊ポスト2019年6月28日号