宇沢は、若いころから頭角を現わしていた。経済成長理論の分野で世界的に業績を上げ、35歳でシカゴ大学経済学部の教授になっている。宇沢のワークショップは若い経済学者たちに好評だった。朝から夜までぶっ通しで、ディスカッションが続く。大学近くの酒場に場所を移し、時事的な問題から人生論まで語り合ったという。
ここから優れた経済学者が育っていった。そのなかに、後にノーベル経済学賞を受賞するジョージ・アカロフとジョセフ・スティグリッツの2人もいた。2人は、宇沢の指導を受けた後、インドやアフリカに遊学している。宇沢の経済学が「資本主義を人間のために」という強い意志をもった経済学だったからだと思う。
その宇沢に、転機が訪れる。1968年、40歳のとき彼は日本への帰国を決意するのである。
アメリカの複数の大学から教授のポストに迎えようとする動きがあるなか、東大は助教授として宇沢を迎えた。世界的な理論経済学者ポール・サミュエルソンは、「国際的名声の頂点にある時にシカゴ大学の地位を放棄した」と評したという。
どうして宇沢は日本に戻ってきたのだろうか。この選択が、よくわからない。あのままアメリカにとどまっていたら、ノーベル経済学賞を受賞していたかもしれない。『資本主義と闘った男』の著者、佐々木実さんも、そう思いながらこの本を書いたのではないかと行間から感じた。
宇沢が帰国を決意する1968年ごろ、シカゴ大学はミルトン・フリードマン率いる新自由主義が盛んだったことも大きかったかもしれない。宇沢は新自由主義を厳しく批判していたから、シカゴ大学にうんざりしたのだろうか。