明確に「本音と建前」を使い分け始めたこの頃から、メディアにおける「クリスマス」の文字は激増する。特に1893年に銀座二丁目に進出した明治屋は、以降の積極的な新聞広告への出広が奏功してか、1900(明治33)年以降のクリスマス時期の新聞には、毎年のように「明治屋のクリスマス飾り」や「明治屋のイルミネーション」が歳末の風物詩として取り上げられるようになる。
その他の企業も目新しい商機に飛びついた。以降の新聞をチェックしていくと1904(明治37)年には東京森永がマシュマロやキャラメルを「歳暮、年始、クリスマスご進物用」として宣伝しているし、1907年には丸善が大大的に「クリスマス」と銘打って「進歩したる家庭に適する文明的贈答品 山の如く新著したり」という広告を出広している。こうして宗教色を切り離されたクリスマスは、大正、昭和という時代を経ながら徐々に庶民へと浸透していった。
1923(昭和3)年生まれの心理学者、河合隼雄の回想によれば欧米文化がすべて「敵性」とされた第二次大戦中の十代半ばの頃、とある”事件”があったという。クリスマスのことを心配する河合に対して父親が「サンタクロースはもう来ない」と宣言。ところが直後に「日本には大きな袋をかついだ大国主命という神さんがおられる」とぽつり。本来、宗教と切り離されたはずのクリスマスに、まさかの宗教色を上塗りするという大胆なカスタマイズである。結果、河合少年は無事クリスマスプレゼントを獲得。プレゼントの箱には大国主命の絵が描かれていたという。移りゆく世相のなか、親子のコミュニケーションも各家庭で工夫されていたのだ。
戦争を乗り切った日本のクリスマスは、終戦直後こそ一部で宗教論争に巻き込まれたものの、戦後復興や高度成長期の商業主義と結びつき、さらなる発展を遂げていく。そしてクリスマスは1970年の外食元年以降の外食文化、1980年代バブル当時の若者のデート文化など急速に進んだサブカルチャーの成熟とともに、日本独特の特異な形へと展開していった。
欧米のクリスマスの過ごし方は、日本における正月と酷似している。仕事を休み、実家や家族で過ごす。暦で考えてもわずか一週間しか間のない時期に、まとまった休みを伴う同じような性格の行事が続くことは経済的にも文化的にも成り立ちにくい。日本のクリスマスは、移り気な日本人の気風に寄り添い、変化することで独特なスタイルを獲得し、生き延びた。そのしたたかさは、もしかすると変化することを忘れつつある現代の日本人自身にもっとも必要な素養かもしれない。