そんな中、なぜ26歳の田原俊彦が主演に抜擢されたのか。『びんびんシリーズ』の企画者である亀山千広氏(元フジテレビ社長)には、こんな逸話が残っている。
〈新しく担当するドラマを「トシでやらせてください」と上司にもちかけたところ、「田原俊彦はダメだ。歌はいいが今までドラマは一本も当ててないじゃないか」と大反対されたのだ。しかし「とにかく一回だけ」と強引に押し切ってつくったのが「ラジオびんびん物語」だった〉(『ザテレビジョン』1992年10月2日号)
亀山氏は1987年公開の映画『瀬戸内少年野球団〔青春篇〕最後の楽園』で田原に煌めきを感じ、当時編成局次長だった重村一氏に企画を提出した。
実は、田原主演の『瀬戸内少年野球団』は興行収入2億3000万円(『映画年鑑 1988年版』参照)に留まり、不発に終わっていた。それでも、亀山氏の熱意に圧倒され、『ラジオびんびん物語』が始まった。重村氏はこう語っている。
〈ソフトづくりはやはりマーケティングじゃない。つくり手側の思いや情熱なんですよ〉(前掲・ザテレビジョン)
完全なマーケティング無視で始まったドラマは2話で『月9』初の視聴率20%越えを達成。全話平均17.8%と合格点を残した。そして、翌年の『教師びんびん物語』、翌々年の『教師びんびん物語II』はさらなるヒットを遂げることになる。
実績を元にしたキャスティングに新鮮味などない。過去の例を踏襲すればするほど、人々は飽きてくる。ネームバリューのある俳優を集めればいいわけでもない。ヒット作は足し算ではなく、組み合わせの妙による掛け算から生まれる。
マーケティングにこだわらず、1人の情熱に懸けたフジテレビの方針が『びんびんシリーズ』の成功を生み出していた。
文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では『教師びんびん物語』や『抱きしめてTONIGHT』のヒットを、関係者への取材や膨大な資料などから多角的に分析。巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)を視聴率やテレビ欄の文言などと記載。眺めるだけで1980年代の芸能界が甦る。