古巣の阪神は優勝から遠ざかっていたが、当時は広島と巨人が毎年のようにペナントを争っており、西武は1983年の日本シリーズで激闘の末に巨人を倒して2年連続日本一に輝いていた。一方、ヤクルトは2年連続最下位、近鉄は1979年から2連覇の後、最下位、3位、4位と成績が落ち込んでいた。
結局、江夏は柴田保光、木村広との交換トレードで西武に移籍する。だが、チームには1983年に江夏の5年連続最優秀救援投手を阻んだ森繁和が抑えに君臨していた。なぜ、江夏が望んでいない西武にトレードされたのか。野球担当記者が話す。
「1983年の日本シリーズで西武に敗れた巨人が江夏を獲得するという情報がありました。巨人は3勝2敗と王手をかけたシリーズ第6戦、1点リードした9回裏に第5戦に完投している西本聖を登板させた。西本が同点に追いつかれると、延長10回に江川卓を出したが、サヨナラ負けを喫した。角三男というストッパーはいたが、そこまでの信頼度がなかったのです。
日本ハムからの放出の噂を聞き、巨人は江夏の必要性を感じた。すると、巨人の動きを察知した西武が『巨人に取られるくらいならウチが手を上げる』と先手を打ち、若手の2投手を放出した。西武は翌年の日本シリーズまで見越し、巨人の手を塞ぎに行ったのです。球界の寝技師と呼ばれた根本陸夫管理部長を初めとした西武フロントの動きが速かった」(以下同)
江夏は阪神時代から首脳陣にとって扱いにくい投手と言われていた。そのせいか、球界随一の実力派でありながら、5球団も渡り歩くことになる。在籍時代1度も優勝できなかった阪神は別として、それ以降のチームでは監督に恵まれていたことを見逃してはならない。江夏がともに戦った指揮官の通算監督年数は、南海時代の野村克也が24年(他にヤクルト、阪神、楽天)、広島時代の古葉竹識監督が14年(他に大洋)、日本ハム時代の大沢啓二監督が13年(他にロッテ)。いずれも長く指揮を任される名監督たちの下で、江夏はプレーすることができた。
1978年にヤクルトを初の日本一に、1982年から西武を連覇に導いた広岡達朗監督も名将だったが、選手のプライドを尊重する姿勢とは正反対で、いわゆる『管理野球』を貫いていた。しかも、広岡監督は電光石火の速さで決まった江夏のトレードを知らされておらず、将来有望な若手投手2人を相談なしに放出されたことに憤っていた。