これらの書簡を読んでいると、一家の大黒柱として、まだ幼い弟妹も含めて安田家を支えていこうとする若きエリート将校の姿が浮かび上がってくる。ここからは、未曾有の軍事クーデターに身を投じようとしていた気配など微塵も感じられない。それでも、安田少尉は引き返せない道へ踏みだした。

 7月12日朝の処刑5分前の記録に、次のような言葉が残されている。

〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず〉

 このエピソードを紹介した『渡辺錠太郎伝』の著者・岩井氏は、こう解説する。

「安田少尉が処刑前日に書き残した遺書には、家計が苦しいにもかかわらず故郷を離れて勉学を修めることを許してくれた両親への感謝と謝罪の思いが綴られています。それでも、『国家の更生』のために蹶起せざるを得なかった。そこには、二・二六事件を首謀した青年将校の多くが抱いていた、疲弊する地方の農村や窮乏する庶民を救いたいという思いがあったことがわかります。

 財閥・政治家が私利私欲を満たし、元老や軍閥、政党、役人が権力を恣(ほしいまま)にしている。理不尽な日本を天皇陛下の親政の下で『更生』させなくてはならない――そんな正義感が彼らを突き動かしていたのだと思います」

 かたや五・一五事件を引き起こした海軍将校は、その義憤を法廷の場で訴えることができ国民からも同情を受けたが、二・二六事件の陸軍将校らに弁明の機会が与えられることはなかった。もちろん、彼らが多くの要人・警察官を殺傷した罪は重い。それでも、責任をとるべき軍首脳が無罪とされた一方で、“実行犯”の彼らだけを急いで処罰したという印象は否めず、それ以前のテロ事件と比べても公正な裁判が行なわれなかったことは明らかだろう。その意味でも、やはり二・二六事件は日本の大きな転換点だったといえる。

 安田優少尉の生命保険証券は、今も弟・善三郎氏の手元にある。刑死だったためか、その保険金が支払われることはなかった。

●参考資料/高橋正衛『二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動』(中公新書)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)

関連キーワード

関連記事

トピックス

NHK中川安奈アナウンサー(本人のインスタグラムより)
《広島局に突如登場》“けしからんインスタ”の中川安奈アナ、写真投稿に異変 社員からは「どうしたの?」の声
NEWSポストセブン
カラオケ大会を開催した中条きよし・維新参院議員
中条きよし・維新参院議員 芸能活動引退のはずが「カラオケ大会」で“おひねり営業”の現場
NEWSポストセブン
コーチェラの出演を終え、「すごく刺激なりました。最高でした!」とコメントした平野
コーチェラ出演のNumber_i、現地音楽関係者は驚きの称賛で「世界進出は思ったより早く進む」の声 ロスの空港では大勢のファンに神対応も
女性セブン
文房具店「Paper Plant」内で取材を受けてくれたフリーディアさん
《タレント・元こずえ鈴が華麗なる転身》LA在住「ドジャー・スタジアム」近隣でショップ経営「大谷選手の入団後はお客さんがたくさん来るようになりました」
NEWSポストセブン
元通訳の水谷氏には追起訴の可能性も出てきた
【明らかになった水原一平容疑者の手口】大谷翔平の口座を第三者の目が及ばないように工作か 仲介した仕事でのピンハネ疑惑も
女性セブン
襲撃翌日には、大分で参院補選の応援演説に立った(時事通信フォト)
「犯人は黙秘」「動機は不明」の岸田首相襲撃テロから1年 各県警に「専門部署」新設、警備強化で「選挙演説のスキ」は埋められるのか
NEWSポストセブン
歌う中森明菜
《独占告白》中森明菜と“36年絶縁”の実兄が語る「家族断絶」とエール、「いまこそ伝えたいことが山ほどある」
女性セブン
大谷翔平と妻の真美子さん(時事通信フォト、ドジャースのインスタグラムより)
《真美子さんの献身》大谷翔平が進めていた「水原離れ」 描いていた“新生活”と変化したファッションセンス
NEWSポストセブン
羽生結弦の元妻・末延麻裕子がテレビ出演
《離婚後初めて》羽生結弦の元妻・末延麻裕子さんがTV生出演 饒舌なトークを披露も唯一口を閉ざした話題
女性セブン
古手川祐子
《独占》事実上の“引退状態”にある古手川祐子、娘が語る“意外な今”「気力も体力も衰えてしまったみたいで…」
女性セブン
ドジャース・大谷翔平選手、元通訳の水原一平容疑者
《真美子さんを守る》水原一平氏の“最後の悪あがき”を拒否した大谷翔平 直前に見せていた「ホテルでの覚悟溢れる行動」
NEWSポストセブン
5月31日付でJTマーヴェラスから退部となった吉原知子監督(時事通信フォト)
《女子バレー元日本代表主将が電撃退部の真相》「Vリーグ優勝5回」の功労者が「監督クビ」の背景と今後の去就
NEWSポストセブン