「日本軍の課題に警鐘を鳴らしていた」
渡辺は、戦争で疲弊した欧州各国の現実をつぶさに見たことで、「非戦」の思想を持つようになった。そして、その目的を達するために日本は軍事力を整備しなくてはいけないと考えるに至ったという。二・二六事件で亡くなる2年ほど前の昭和9年3月に、日比谷公会堂で行なった「日露戦争の回顧と将来戦における国防について」という講演では、こんなふうに述べている。
「申すまでもなく戦争は悲惨なものでございますから戦争を避けていつも事を平和に済ますことが出来ればこれに越したことはないのでございます。
しかしながら利害を異にしまする各国間の紛争はいつでもこれをうまく協調して平和に済ますことは難しいことと思います。それは現にこれまでにおける国際連盟、軍縮会議の状況を見ても判ることでありまして現在の世界の情勢では戦争を絶対に絶滅するということは難しいことと思います。これがためには万一の場合に処するためにいわゆる備えあれば憂なし、こういう境地に立たなければならぬと思います。
言い換えますればたとえ敵が攻撃をして来ても負けない。すなわち敵がわが国を攻めても勝つことができない。こういう備えがこちらにありましたらならば恐らく戦争は始まらぬと思います。」(講演の友社『講演の友』第三十二号より)
『渡辺錠太郎伝』の著者で歴史研究者の岩井秀一郎氏は、渡辺の非戦思想をこう解説する。
「渡辺にとって平和とは『願う』ものではなく、『実力で維持する』ものだったと思われます。しかも、国民もまた平和を維持するためにきちんとコストをかけるべきである、と考えていたようです。いわゆる非武装中立とか武力放棄といった空想的平和主義者とは明らかに違います。むしろ近代的な兵力を整えることで、実際に戦火を交えなくても済むような強い国家を目指していたようです。
渡辺は日本軍の『攻撃精神の誤用』と『精神万能主義』も強く批判していました。さらに、航空本部長も歴任し、『防空なくして国防なし』と説いて防空の重要性を強調していたり、ドイツ軍の敗因として戦線の拡大による補給の軽視を問題視したりしていたといいます。その点では、のちに泥沼の戦争へと突き進んでいった日本軍の本質的な課題や問題点に、いち早く警鐘を鳴らしていた軍人の一人だったといえると思います」