各々が同じ志で頑張れば山は動く
明治7年、政府は医療の近代化を図るべく〈医制〉を布達。同11年には全国で医術開業試験が行なわれるが、受験の前提となる医学校への入学自体が、女子には許されていなかった。
紅杏塾で学べば学ぶほど、産婆ができうることの限界を痛感した瑞は、一度は前橋に戻って衛生指導に貢献するなどしたが、やはり医師の夢を諦められず、再び上京。そして紅杏塾の友人を伴って内務省に乗り込み、衛生局長・長与専斎に請願を試みるのだ。
「岩倉使節団として渡欧し、西洋医学を学んだ長与は、hygieneを衛生と訳し、日本に定着させた人物。彼が訪ねてきた瑞たちに言った〈ほかからも頼んできている〉〈時が至るのを待つのだ〉という台詞は、実際に史料に残っています。
ここでいう『ほか』というのが吟子や久野や銓子たちだったんです。つまり医者を志した動機も育った環境もそれぞれ違う彼女たちが、ほぼ同時期にいろんなルートで『女にも試験を受けさせろ』と長与に頼んでいた。面白いですよね。
長与は長与で、その頼みをその場しのぎであしらわないフェアな人物でした。また、来る日も来る日も校門脇に立っている瑞に根負けして入学を許す、湯島の済生学舎校長、長谷川泰にしても、彼女たちが真摯に夢を追ったからこそ、力を貸したのだと思います」
だが入学早々、瑞は男子学生らに苛められる。それも教室で一斉に足を踏み鳴らされる、背中に落書きされる等々、子供じみた嫌がらせばかり。実は済生学舎では瑞以降、多くの女子学生を受け入れ、東京女子医大創設者・吉岡彌生を輩出するなど、〈女医の一般化〉に貢献するが、当初は抵抗も強かったのだ。