客の利益と自分の利益は両立できる
夏子にとって、家から徒歩で通えるこの営業所は理想の職場だ。紳士服販売店の凄腕セールスの母〈想子〉と、都立高で数学を教える父〈室山薫平〉は客として出会い、母が得意な〈卓球デート〉を重ねて結婚。だが、出産後も母が仕事を続ける中で溝が生じ、10年前に離婚。以来父とは疎遠だが、憎み合って離れたわけではない。その証拠に夏子の見合が父の発案によるもので、鈴央は父の元・教え子だったことを、夏子は当の鈴央から聞かされるのだ。
それはとあるクリスマスのこと。銀座の焼鳥屋で、彼は元は〈室山先生〉の紹介だったと打ち明ける。そのときの夏子の反応がこれまた好ましい。〈串から外した豚バラを食べ、生グレープフルーツサワーを飲む。どちらもおいしい〉〈つまり腹は立ってないのだ〉
「彼女は自分の感情を別の角度から客観視できる人で、鈴央もフェアでいいヤツなんです。その鈴央にして、運転手の仕事はやめてほしいとその後、夏子に言ってしまいます。
もちろん運転手として災難にも遭った夏子が心配で言うのですが、仕事観という大事なことに、意見されて堪るかという話でもあるんですよね、これは。元々運転が好きな彼女は、少しでも自分の存在が女性客の助けになればと思って進路を決めた。その決意を他人に覆されていいのか悪いのか、決めるのも自分なので」
夏子が遭った災難、〈駕籠抜け〉とは、到着後に金をとってくると言って、そのまま逃げられる手口のこと。夏子の場合は五反田で乗せた女を東神奈川の自宅前で降ろして待機中、裏口からまんまと逃げられ、被害は1万3千円。ショックを受ける夏子に、営業所長は言う。〈お客様の安全が第一。でも自分の安全も大事。それを第二にしなくていい〉〈お客様のことは信用しなきゃいけない。警戒もしなきゃいけない〉〈両立させていいんだ〉と。
「タクシー業界に限らず客のためと自分のためは両立できるはずだし、1つの便利のために9つの不便を我慢しちゃうようなことが、最近は多いと感じます。もちろん現場には現場の事情があるとは思う。ただ、客も自分も大事というのはごくごく基本的なビジネスモラルで、それ以上のものなんてないと思うんです」